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アテルイとモレと河内国と田村麻呂、そして死への疑惑 -4/X-

河内国での処刑は、どうにでもなった。

身代わりの罪人を処刑して、刑執行の完了報告をし、首実検などもすることは無く、首を晒すことも無し。全ては田村麻呂の演出通り事を進めて、一件落着。

 

前回、「この時、河内国への移送は、誰が担当したのだろうか・・・」と投げかけた。

その答えは「田村麻呂の次男、坂上廣野麿で間違いない」と断言しておこう。

もうひとり重要な人物がいる。

 

ここでは、その人物を考察するために、その後の田村麻呂の動きを少し観てみよう。

 

処刑の日、802年8月13日、その翌年、803年4月1日、志波城造営のために陸奥国へと派遣されている。

 

この時、アテルイとモレが処刑されたと知った蝦夷の兵たちは、弔い合戦をする好機だったずだが、そのような記録はない。

 

胆沢城に続き、志波城も完成し、いよいよ北の蝦夷を征服に向けての準備が整った。

 

さらに翌年の804年3月13日には、征夷大将軍に任命される。

そしてその時の副将軍は、百済教雲・佐伯社屋・道嶋御楯。

 

副将軍3人、軍監8人・軍曹24人との記録があるが、ほんとだとすれば大部隊構成だ。アテルイもモレも居ない、蝦夷に対して、それ程の規模の兵力が居るという見積もりは、一体誰の読みだったのか。蝦夷の抵抗力は、それ程にあると見積もったのには、何か訳ありの匂いがする。

 

この時の人事、副将軍の人選は、田村麻呂による影響力が働いたのに違いない。

 

副将軍の3名、百済、道嶋、佐伯は、皆、蝦夷慣れした武官だ。

そこどころか佐伯氏は、流配された蝦夷なのだ。
道嶋氏も坂東出とはされているが、古くに流配された蝦夷が、古巣の牡鹿へ戻ったのだと思われる。

 

その三人の内の一人、百済は、百済王氏の一族だったのであろう。陸奥守・鎮守将軍・征夷副使、出羽守などを輩出した征夷事業に関わった一族だ。百済王敬福は、749年、陸奥国(現在の宮城県遠田郡涌谷町)で発見した黄金を平城京の聖武天皇へ献上した人物である。

桓武天皇の時代には、一族の娘を天皇の後宮の宮人とするなど、天皇と私的な繋がりを結んで繁栄、厚遇を受けていた。本貫地は、河内国交野。交野は、天皇遊猟である。804年11月13日、天皇遊猟に田村麻呂も同行していた記録もみられる。

 

この田村麻呂とは、古くから親交はあったとみて良い。出羽国の情報を仕入れる相手でもあり、当然、蝦夷の統制に関して意見を交わしていたことだろう。

 

河内国交野についてもう少し話を広げて置きたい。桓武天皇の時代、離宮が置かれた程の重要な地だ。天皇の狩場があったことにちなむ禁野(枚方市、ひらかたし)の地名が残っている。野というイメージとは異なり台地・丘陵地である。そこに百済寺もあった。百済寺は、新羅の感恩寺と同形式であるとされている。敵対国家であった新羅の寺の形式を真似る事があるのかという疑問を感じる方もいると思うし、私もそう感じている。

 

「即捉両虜斬於河内國□山」・・・□に何がはいるのかは、研究されているが、結論は出ていない。

おおむね「植山」と「椙山」だろうとなってはいるが。

 

いずれにせよ、その禁野周辺で斬るということは考え難いとする意見に、私も賛同だ。むしろ・・・妄想だが、桓武天皇が、田村麻呂が命乞いをする程の人物似興味を示し、二人を観たかったのではなかろうか。容易に一般人の立ち入れない地域に、連行し・・・それ以上、会った可能性すら、妄想の膨らむに入ってくるのだが。

 

その地に連行したとしたら、当然百済氏が関わっていたと観ても違和感がない。

 

その後、その近辺の何処かで、実際に斬られたのかも知れないないとすれば、なんともお粗末な記録となったが、意識的にぼやかしたのかも知れない。

 

逆に、その後、何らかの形で、生き延びたとしたら・・・と考えるとした時、その行き先は何処で、何をしていたのかという疑問に応えなければならない・・・のだが、その話が伝承や、妄想的な話として一切登場しない。

 

今回のテーマを「死への疑惑」とした以上、もう少し妄想を深めて行こう。

 

 

つづく

 

 

 

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