エミシの森 -4ページ目

アテルイとモレと河内国と田村麻呂、そして死への疑惑 -1/X-

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アテルイとモレは、胆沢で降伏し、田村麻呂と都のそばの地まで連行され、河内国で散った。

 

そういうことになっている。

 

この事について、いまだに色々と疑問が浮かぶのは、私だけなのだろうか。

 

アテルイとモレが、降伏に至ったことと、その経緯は、残っている記録が少ないとは言え、説得性はあり、受け入れることができる・・・。

 

田村麻呂の、できるだけ血を流さずを良しとする戦略が功を奏し、二人以外のリーダー達が、朝廷に寄って行くなかで、孤立化は、進んだであろうこと。
戦闘での疲弊と、帰属した者たちの待遇を見て、二人も、そして仲間達も戦闘の意義は薄れ、その意欲が低下していったことも容易に想像が着く。

 

それにしても、田村麻呂は、どこで、どうして、蝦夷の特性を学んだのだろうか。

この点は、他の方々の推説でもいつくかあるが。

 

蝦夷の一部には、大和から逃れてその地に至った渡来系の一族もいて、田村一族の祖先が、その一族とルーツが近い、あるいは同系だったのではないか、とか。

逆に田村一族は、かなり古い時代に蝦夷から帰属して都近くに来たのではないか。

 

これらは、妄想に近いのかもしれないが。

 

いずれにしてもアテルイとモレの民族的、あるいは個として観ての、戦士の誇りを損なうことなく、自発的な降伏という形に持っていった田村麻呂は、将にプラスして参謀としてのセンスが抜きん出ていた人物であったことを認めざるを得ない。

 

結果、二人の「降伏」という形で、第三次蝦夷討伐の幕は閉じた。

 

そしてここから「死」へと向かうに至る流れにあがなうように、疑問が生まれて来る。

 

まず第一に、二人は、なぜ都に同道することになったのだろうか。

 

田村麻呂の戦略を、想像することが、一番の手掛かりなのだろう。

 

今回は、ここまでとしたい。

 

 

胆沢の地を離れ、日高見川(北上川)を舟でくだり、かつて住まっていた地を遠望しつつ進む時、その胸中に去来した想いは、どんなものであったのだろうか。

 

途中から陸路を馬に跨り、隊列の中心となって、多賀城への街道を進む姿は、胸を張った姿であったであろう。

その目には、未来への希望に満ちた光があった・・・と信じたい。
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つづく