おとついはフランスの演劇パフォーマンス集団「ロワイヤルドゥリュクス」の原作童話「スルンタンの像と少女」を読んだ。

そして昨日は
「宇宙飛行士オモン・ラー」を

そして今は
「ドンファンの教え(呪術師と私)」カルロス・カスタネダ著
を読んでる

俺が一生懸命に、できるだけ前回読んだ本とは無関係な本を読んでいこうとするのはきっと

みんなが住んでる世界はたった一個の球体の上なんだけど
その一個の球体は360度の見方があって
さらに円じゃなくて球体やからその何倍も見方があって

さらに時間はすすんでいくからさらにその何倍もあって

わーーって感じ

でもそんな楽しみ方無限大の世界に
俺はこの目ん玉がたった二つしかないことがとっても憎い

自分の思想とかをたった二つの目ん玉の裏側にしっかりと一つ持つくらいなら

ありとあらゆる世界の見方で見ようとして、わけわからんくなって頭ん中わーーーってなってた方がマシだ。

俺は現実的な現実が目の前にあったら
まず逃げる

絵を書くときも、何かカタチが完成しかけたらそれから逃げる
俺の絵は意味だのカタチだのから逃げ回ったそんなラインの偶然の集合でしかない
photo:01



決着がつきそうもない闘いと出会えたら、それが嬉しい

読書は俺をここに止めない
常に連れて行ってくれる
けども、忘れちゃいけないことがある

本を読んでるということは
このケツはどっか明確な座標の下に
接着されていてまったく不動だということ

そういった意味で、読書はクソだ
クソの役にも立たない
イスに座ったままじゃ、感動と驚きと発見の世界に出会えるわけがない

だから俺は
読書とは、矢印にすぎないとも考える
本の内容は常にどこかを指差してる

その内容に喜ぶのは
いつかその内容を目撃したいという好奇心の種が心の内に生えるからだ

本の中に答えを求める奴に
答えなんてやってくるわけがない
答えってのはシナプスの偶然の出会いなんてもんじゃない

だから言葉なんかじゃない
50音の偶然の組み合わせに人生が喜ぶはずがないんだ

それは身体感覚のはずだ!
時間の中の実際の感覚のはずだ!
持ち歩ける言葉じゃなくて
歩く足そのもののような近いもののはずだ

本に矢印を学び
そちらに歩いてみる

世界は一つのスペクトルだと考える
光が色彩を伴うビーム状になることをスペクトルというらしい

虹もスペクトルだけど、虹の色は国によって違うらしい
それは国によって人間が違うからだ

この世界も一つのスペクトルだ
人間の数だけその色彩は存在する

自分のこの世界というスペクトルに対する姿勢
それがきっと人生だ

photo:02



適当に紙の上に
イメージなら絵を
言葉なら言葉を
数式みたいに足したり引いたり
ぶつけたり戦わせたりして

弁証法的に新しい言葉やイメージを
生み出しまくるのが大好きで
ナプキンや公告なんかに書き殴る

周りから白い目で見られるけど
そんな白目むいて生きてるような人たちは無視しておいて、集中する

これは本よりも身近なものとして有用な矢印になる(きっと自分で書いてる分信用できるからだな)
photo:03



そして、紙面が満杯になるころには、なんとなく昨今の自分の脳内が目の前に出現したような気分になる

俺はそれを、公園で身体を動かして
シャドーボクシングしたりする時に活用する。

だから、たいてい
概念や思想の弁証法的なやりくりは
力学のような、一番具体的なもの
にカタチを変えていくことに気付く

俺は格闘技が好きなのは
具体的だからだ
合理性ってのはなにも理想として有利なものを指すんじゃない
勝利して生き残ってることを指す。

だから俺は生き残るために
人の中に食い込んでいけるために
自分の中で自分を明確に位置付けるために

勝ち残るために
頭をひねり、身体で実験して、そこで
新しい発見をして、それを人にぶつけて、生き残ることで
実証して、はじめて存在できると思ってる。

虹が100万色に見えるって言うてるだけじゃキチガイだ

科学も宗教も友達も家族も
全員の顔面をボコボコにしばきあげて

「どやっ!百万色やろ!?」
「はい、百万色です!」

って言わせなあかん!
ヒットラーはそれをやった、
常に勝利が合理性を生み出してきたんだね

俺は自分の個性を全力で自分に尋ねる
そして理解した自分ではじめて世界に挑めると思う

真っ正面から
変則的な全身自分パンチで
世界ひっくり返して
それではじめて
世界と自分は共存できると思う。。


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