「いやはや、いやはや」
なんか最近ハッピーな時、自然とそんなセリフが口をついて出てくる、、、
恥ずかし。
もー昔の友達で集まれば
幸せで
線路の音でオヤスミできそう
そうそう、バイトが見つかった
精神障害者の人たちの社会復帰を援助するために京都の各地でグループホームをもっているNPO団体の仕事だ。
今日はその採用テストのような日だった、トマトベースのキーマカレーというのを監督の支持のもと作った。
ホームの利用者たちは、案外普通だったけども、言動には偏りが見られた。
爆発する危なっかしさがほのかに残る人を二人ほど見た。
でも、そんなのは誰にだって見受けられる、そう思ったのが今日の感想。
実家に帰ってた時、ちょうど僕のめいっことおいっこが全員集合してた、ちょうどホームの雰囲気に似てるものがある。
そして、日を追うごとに格闘技への情熱が下がっていくのを感じている。
否
それは依然として存在はしてる、けどもボランティアの経験が新しい人生のベクトルを僕に教えてくれた。
僕が僕としてあらゆる方向に成長する為には、あらゆる方向に伸び代をのこした自由な白紙のキャンパスでなくてはいけないと思った。
そんな自由に反して、僕は格闘技を肩に担ぎすぎていて、同時に利用しすぎている。
それは東北で出会ったボランティアの人たちの魅力と、また向こうで出会った有名人たちに対する同情の念、それにマスコミに対する明確な不信感が格闘技のプロや、有名になることへの無関心というカタチで僕の心に現れた。
もはやそれらを望むまい
能力の一元化が偉いのは、専門家の存在のように、あらゆる職能が分業化された資本主義の世界の中だけだ。
それならば僕は、格闘能力に固執することなく、無差別に自分の強さを目指す過程で向き合うことになる、作詩能力やサバイバル能力、資本社会内でのサバイバル能力、イメージをカタチに表せる描画能力によって培われた、筋力と脳みそでそれら強さを表現していきたい。
僕の出会ってきた格闘家たちの全ては、格闘技以外に対して何かコンプレックスをもっていた。
「自分には格闘技しかない」
なんて言いたくはない。
言われても少し悲しくなるだけだ。
その人間性ではなく、その極端に鍛えられた職能でしか見られないからこそ有名人には憧れと同時に少し同情する。
明日はもっと家の家具の配置や、食材の安定、といったような生活への集中を目指そう。
さっきは部屋の壁に向かって座禅を組んだ
壁は果てしなく厚顔無恥な顔で壁をしている
その壁に僕は
吸い取られて
壁になってしまった
または、前方に絶対的な虚無を感じた
頭の中に壁が生える
壁と僕の絆
その境目が薄れていくと同時に
頭に新鮮な風が入り込む
これは精神衛生上とてもいいことだ
そう思う。
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