ばしーっ

夜分の、三十三間堂の門前に荒い呼吸に木刀のスイング音。

誰だっ?俺だ!

外人「わーお」

俺「はろー」

その時もう外人は通り過ぎていた。

久しぶりの運動に筋肉が、びっくりして俺に尋ねる「あぁ、お呼び?君俺んこと必要としてたんやね、なんか嬉しいわ」俺も嬉しくって汗だくです。

どんどん痩せていってるので、このまま然に有るべく自分の欲望の分だけ運動し、食事をとってコーヒーを飲もう。

7年ぐらい格闘技用の身体って感じやった。これじゃだめだ、上半身がでかくってそれに下半身は細いからバランスが悪い、足腰の持続力がダメだ。

山を歩いて、上半身の習慣的な筋トレをしない日々が続いたので、必要な腹筋や背筋、広背筋を残して、ほっそりとしてきて、それがなんだかいい感じに好きだ。

山登り用の身体になりたい。
それと日常生活用の身体を特化したものにしたい。

西洋的な部分の特化した筋肉は、確かに筋肉は個別パックに割れ、それっぽさを増す。けども登山家の足はスラッとしたものだ、それはきっと、筋肉と筋肉の間の連結部も連携力を高めるためにしっかりとついているため、個別に大きく見えないんだ。

一つの運動に参加する部位を部位ごとに鍛える、それが基本的な西洋の科学的な考え方だけど。
僕の思う東洋的な考え方では、一つの運動に対して、参加する部位じたいを増やしていこうとする。

ホントウは一つの運動に対して、参加してない筋肉はないんだ。
けども、上半身の運動を上半身だけでしようとするから疲れる、達人や労働者は上半身の運動にしっかりと全身を参加させて行うので疲れない。
筋肉が発達する時も、個々の筋肉が目立つカタチじゃあなく、全身がどっしりとごつくなってくる。

まあ、ホントウは西と東という風に分けたけども、それが混合しあって運動理論は成り立っている。

西洋的スポーツだってもちろん実戦で全身が鍛わるし、東洋的なトレーニング理論でも個別パートの鍛錬は行ってるっちゅうこと。

筋肉の話は長くなる、、

身体の話は大事やね。


鴨川の増水がえらいこっちゃで、普通に歩いていたところ全て水没しておった。

家に帰って、しょうがニンニクねぎたっぷりのカレーうどんと、ほうれん草のおしたーし、と味噌汁をおいしく食べた。

明日はオトンとデートだ。
うれしそーにメールであらゆる細かいスケジュールをパターンAからCまで送ってくれている。

当日コロコロ変わってオトンのスケジュールは無に帰する。という事態は過去に数え切れないぐらいあった。

まぁそうやってスケジューリングするのが楽しそうだからいいのか。。



そうそう、、世界には自分と同じ人が三人いるという。俺はその中の一人に出会ってしまったかもしれない。

原付で走っていると、見覚えのある垂れ幕があったので、Uターンして見てみる、コレは、、、まさに、、、
俺の描いた絵じゃないか??

photo:01



画像ちっちゃいけど、、

ほんまそっくりな絵を描く人がいててびっくり、少しショックでも後に興味がわいた。どんな人なんだろう?

あーあ、やっぱ俺の絵は誰だって描けてしまうのですね?
まぁ頑張ってやってたわけじゃなかったから、仕方ない。もっと頑張ろっと。

それと、同じ程度の絵を描いてる奴が金銭をいただいているという事実に、なんか嬉しくなった。俺のも売れたらウッシッシ、笑

昭和の電灯で畳の上、線香たいて、ジンジャーコーヒーのんで読書。ムッヒッヒ。

いつも孤独に悲しくなるけど。
いつも孤独に幸福をいただく。

孤独ってば
こまったちゃんなんだなぁ

孤独っていいなぁ
煙が似合うから

誰がきても
ありがたく迎えれるもんな

ご飯おいしいし
音楽もよく聴こえる

壁とは一対一だ
家事がとても親しみやすい

自分の筋肉が動く音
自分の鼻から息を吸う音

寝る直前の暗闇
全部近いのな

近いのがさみしさを誇張することもあるのかもしれないけど

ここにさみしさはないよ

孤独は街や人混みの中にある

ネオンの光にある

森にもちょっぴりある

でも僕は
木刀にも部屋にも家事にもお寺にも蝶々にも癒されれるもの。

なんにしてもありがたい世の中だ。

がっしょうがっしょう

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