YAHOO!

こんばんわ。

今日は、バイト先のホームで朝を迎えた、すると驚いた、俺よりも先にメンバーの人が起きて何やらゴソゴソしとるではないか。

メンバーが何かやらかしてはいけないように、一応宿直は気にかけておいて、メンバーの動向をメモしなくてはならないのだ。

急いで起きて、メンバーのところに行くと、さらに驚いた!

メンバーのおっちゃんが、早くに起きて灰皿を掃除して、さらにそれぞれの座席にお箸まで配置してくれているじゃないか!

それに刺激を受けた他のメンバーさんが、みんなのコーヒーの用意までしてくれた。

こっちが介護せなあかんのに、むっちゃ助けてもらったし、それに初めての一人の宿直やったからすげえ嬉しかった!!

お陰で、朝食や朝の業務がとてもすんなりいった。朝食も、メンバー五人と僕で和気あいあいしゃべりながら過ごした。

もっと仲良くなって、空気を掴んでいきたいと思う。それ無くしては、介護者と被介護者というような境界を無くして、個人対個人というような主体的な関係性というものを構築していくことは不可能だと思う。

焦らず、じっとりと、最速でいくぜ。


先日、本を買った。
一冊1200円もした、それは以前持っていた本で、4年かけてやっと上巻を読み終えたとこだった本だ。

下巻にいくには、まだ理解できていなさすぎるので、もう一度上巻を読み出そうとしているときに、イかれたノートや詩や絵と一緒に入れていたリュックごと盗まれたのです。

それからずっと欲しいけど買わなかった本。

ちなみにコレ。
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これは、一応哲学に入るけども、ドゥルーズとガタリという二人の共著で、ガタリは心理学者(それも一応だ)ドゥルーズは哲学者(それも一応だ)二人とも、その哲学の射程が広範囲に及びすぎていて何学者なんてカテゴライズ不可能なんだ、だからこの本は僕にとってまったく哲学書じゃあない。

誰も寄せ付けない山に似たパワーを感じる本だ。

この山をとりあえず、一番簡単な登山道(字を全部読むだけ)から登って頂上に行くまで(しかも上巻だけ)4年かかった。

4年前の僕は、何を思ったか、世の中にある一番尖った部分の本ばかりを読んで周っていた、今思えばヴィレッジバンガードに並んでいるようなレベルの本でしかなかったような気がして恥ずかしいけど、当時は必死のパッチだ。

錬金術だとかカバラーだとか、密教だのチベットだの相対性理論だの、文化人類学だのユングだの、今思えば、何も記憶に残っていない、それに何ひとつ理解できていなかっただろう、けどもいい社会見学だったと今では思っている。

そんな時に街角の本屋でこの本と出会った

その裏面には
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「マグマのような苛烈な文体」
当時の僕の好奇心を爆裂させるには十分な一行だった。

僕は、二行目を読むことなく、胸をドッキンドッキンさせて小さな財布から1200円出して買った。

深呼吸してから、深い海を目指す心持ちで、本の文面の中にダイブしていった。。。。、、、

2ページ目ぐらい読んだところで、、

窒息、、

ぷはっ!

ん!?

ん!?

本当に、、本当に、、
意味が不明だ。

意味不明な本ならいくらか読んだことがあるし、それをその在り方で楽しむことにもある程度自信のようなものはあったけども。
ユアグローや安部公房なんかとまったく違った不明感。

この本のそれは
まったく、確信に満ちた言葉で(まるで見えてるものを文章化してるような)リズム良く文章を進めていく。

けど、読者であるこっちは、おいおいおいおい!!!
待って!!なぁ!待ってって!

おーーーい、、 、 ぃ 、、

って感じで、圧倒的においてかれる。

哲学書にありがちな、歴史的な意義を把握していなくては理解できないような言葉の羅列、のような難解さではなく。

意味不明な詩を本人は楽しそうに口ずさんでるんだけれど、こっちは何も理解できていない状況が果てしなく続く、ような感覚。

何度潜っても、ページが進めば進むほど、容赦なく、深度は深くなり、
やがておいてかれる。

4年間無視してきたわけじゃあなくて何度も挑んでなんとか完読することはできた。

意味不明なものの、なんか「風味」のようなものだけは把握できた気がした。

そしてその「風味」は人生にとって本当にかけがえのないものを教えてくれた気がする。

この本の難解さは、概念の難しさではないと思う、論理的思考能力が必要というわけでもないと思う、なんというか、コレを読むには多少の「アホさ」のようなものが必要だと思われる。

それは、こちら側の心の余地のようなものだと思う、相手の想像力が入り込めるだけの余地だ。



開高健は哲学についてこう言っていた

「哲学は理性で書かれた詩である、論理と思ってはいけない、もう一歩踏み込んでいうと、詩の文体で書かれた心の数学である。もちろんその理性の詩は感性で裏付けられている。したがって一度その詩から外れてしまうと、一切は屁理屈のかたまりにすぎなくなる、その哲学者の感性および理性の周波数と、こちらの周波数が一致した時それはみごとなボキャブラリーの殿堂になり、宮殿になり、大伽藍になることもあるーというこっちゃ」

この本において、まず大事なのは、この感性の周波数であるように思う。
理性の方の周波数を合わせるのは本当に難しい。

そして、今になって僕は再びこの山を登りたいと思ったわけだ。

8時間ほどかけて28ページだ。
理解するために、ノートに雑に書き込んで、
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それをキーボードでiPhoneに一列の文章化して自分が理解しあすいカタチに叩き込む

それでも、わからない部分は、穴があくほど、何回も同じ文を読みあさる、何回も行き来し、ちょっと先まで読んでみてもっかい読み直したりを繰り返してると、なんとなく分かってくる。

ほとんど修行だ。

今回もっかい読み始めたのだけど、前に一回読んで風味だけは味わったはずで、しかもその風味は僕の人生観に著しく跡を残してくれているのに関わらず、初めて読むかのような感覚でめまいがする。

一回目読んだ時の何倍もの、新しい発見が一ページごとに擦った揉んだを繰り返す。

あぁ、、

この本について書きたかったのに、結局内容には一切触れれなかった、笑

またこの本の感想にも挑ませてもらいたい。

脳みその、シワというシワに水銀と微弱な電流が流れるような感覚でございます。そんなところにシワあったの?
ってのが身体感覚で分かる本ってどんなん!?

こんなん
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戦争してる気分だわ

でもね、殺し合いじゃあないの

人を理解するために

自分の脳みそを切り裂く

人の心を取り組むために

自分の心を切り開く

そんな戦争

世界は広いなぁ

狭いのはいつだって自分の器だわ



今日、ふらっと立ち寄っためっちゃかっこいい鍋やヤカンが売ってる製鉄所の壁に墨汁で殴り書きで描かれていた言葉?呪文?が、むっちゃ心に響き渡った!



叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩け!

叩き出せ!

自分を!



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