いやーん
雨がどっしゃり降ったりすっかり止んだり、雷様はドンドコイカズチをうねらせる。
そんな時の晴れ間が好きだ!
なんともありがたい心地になる。
「真似をする」っちゅうことに前まですごく敏感やった。
「個性」っちゅう言葉を追いかけ回してた時期だと思う。
頭には「真似をしない」ことばっかやった。
流されるのがキライだぜ
って言葉が輝いて見えた
最近わたくしは、よくよく勉強うしとります、「アンチオイディプス」においていかに、資本主義が分裂症的な在り方をしているか。
いかに精神分析学そのものが、分裂症的か。
いかに全ての存在が分裂的であり、同時に秩序や公理体型、社会、権力というものが、パラノア的であるか。
テロを最大の敵とみなすアメリカ自身が(縮尺がおかしいせいで気付きにくいけども)正義戦車で他国の国土と信仰と政治を攻撃する超巨大なテロ国家であるようにだ!
「先生」という存在がいやしい
「権力」という存在がおかしい
みんな同じくらい正義で、悪なんだってことを、果てしなく説いてくれる本だ。
そこで、分裂症を分析する、その分析事態を分裂化させる、スキゾ(分裂)分析というのを打ち立てるんだな。
まあそおいった本に、頭はあっちゃこっちゃひきずりまわされていると、ちょっと脳みそが密になるどころか、カランコロンになってきている。
いい本だってことだね!
マネをしたくないと凝り固まっていた僕のモノサシは定規型であることをやめ、測るものと等しいカタチになるアメーバーのようなものになった!
分裂症者の幻覚が、当人にとっては幻覚ではないように。
そここに無限の事実がある。
現実と幻覚を区別するのは、権力以外のなにものでもない。
俺たちは、作家の幻覚を現実のように涙し、喜び、再び現実を新たに切り拓こうと前進する。
幻覚は確実に、現実に現実的に干渉するんだ。
幻覚には、合法的な幻覚か(正当)、非合法な幻覚(異端)の二種類があるだけだ。
まぁそういったわけで、僕は悪を忘れた時から、正義も忘れた。
禅坊主の澤木興道も言うてた
「善悪をはっきりするために座禅するんやない、善悪忘れるために座るんや」
アホな時の自分は楽しい
何かを判断する自分をやめて
何かと踊る自分になるから
本に没頭していて、ふっと外の鏡の前に立つ女の人に驚いた、だって、こちらからはその人の後ろ姿しか見えないのに、女の人の前の鏡には女の人の前が写っている。
後ろ姿と前の姿が同時に横並びに見えることに、ほんの一瞬とまどった。
そうか、俺の頭はアホになってるんだなと思った。
いつもなら、イケナイイケナイあれは鏡がそうだからそうなんだと、自分の脳内で修正するけども、僕はそれを良しとしなかった。
こうだからこうなんだ、をやめて
こうなんだに驚く。
そっちの方が楽しいやないか、ウヒョ
最近、目に入る人の動作を無意識にマネしてることに後で気付くことが多い。
あれ、なんで俺腕組んだんやろ?
って思ったら、前に座ってる人が腕組んだことに気づいたり。
あれ、なんで俺目カイカイしたんやろ?って思ったら、通りの向こうを歩く人が目をカイカイしてたり。
かといって、俺が鼻くそどんだけほじっても、俺の周りの人が鼻をほじるわけではない。。。さみしす。。
最近の僕は、何かをマネできた時に喜びを感じる。
それは森や自然の中で学ぶ時が多い。
腰のカーブが美しい木をみて、自分も腰をキュッとひねってみる。
煙を見ながら、自分もどんどん薄く広くウズウズとただようのを想像してみる。
コーヒーにミルクをいれて、ミルクと一緒にまわってみよう
そうやって素直の練習をする。
マネができる大人になりたい。
ここで大切なのは「分け隔てなく」ってことだ、何か大切なものだけのマネをする人はその時点で差別主義者だ。
大人になれば、どこか差別主義者になってしまう。
家族、ジャパン、趣味、習慣、思想。
そりゃヤングのすることだぜ
俺の入る店全員がハナクソほじるようになり、やがて食うようになる。
そんなパワーを持った人間にわたしはなりたい
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