コンプレックスという名前のひだひだに、引っかかることなく

いかに墜落していくことができるか。

僕にとって、木刀を振ることと、座禅を組むこと、これは同義だ。

座ること、それは自分が骨盤を幹にした大木になることを目指すことだ。

木刀を振ること、それは
木刀を小枝のように扱えるようになるため、、前はそう考えてた。
今はちがう。

それは木刀の気持ちに近づくため、その他はない。

どちらも同じ。

集中という名前の道を通って
自分以外のものに同調すること。

僕は座禅を組んでいるのではない
イスを作っているんだ

世の中には、座ることのできるイスが有り余るほどあるのにかかわらず。
座ることのできるケツというものがまったくない。
だから、座る修行をするんだ。

まだ、僕はなにも理解しちゃいない

線香が煙になるように
煙が線香になるのを目指す

人はいつでも、円周の辺縁でしか物事を捉えることができないけども。

果たして中心はどこにあるのか?

それを、僕たちは世代を超えて、いつでも目指すだろう。

その中心の仮の名前ならたくさんある。
「本当の自分」「アートマン」
「悟り」「解脱」

ならば僕はあきらめる

あきらめるのが一番の近道だからだ

自分の中心を、振り返って探したり、遠目になって覗いたりするよりも。
この「今」それが辺縁と呼ばれようが、気分と呼ばれようが、それをこそ、しっかりと見つめる。

100万年に一回の惑星同士のすれ違いにも等しい、この自分の気分と行動そして出会いの全てにこそ、自分を学ぶ。

木刀の一振りの中に、「自分」というものが無いのならば、自分なんてない。

むしろ逆に、自分なんて世界には一切存在しなくて、木刀の一振りの中にこそ存在するのかもしれない。

木刀をはやく振るために、それは名目にすぎない、本当は、さみしかったのかもしれない、いや、嬉しいのだ。

さみしさや暇が確かに僕に木刀を取らせたのかもしれない、けども木刀は僕に僕を教えてくれた。

「教えてくれる」~「学ぶ」の一致する瞬間。それは100万年に一回の惑星同士の衝突のような美しい花火を僕の精神に打ち上げる。

親しい友人でも、何回かに一回お互いがまるで新しいお互いを発見する時がある。
住み慣れた部屋の片隅で、何かを悟る時もある。

その瞬間、きっと自分のどこかに穴が空いていて、そこからどっかにつながって出ていってるんだと思う。

もし、いつでも、自分を空白にしておけるなら、それは向こうからやってくる。

千回の素振りでも見つけれないことが、たったの一振りで見つけれることがある。

心の持ちようで、まるで違うんだ。

予定のための行動は、予定の消化という答えしか僕にくれないけども

おもむくままの行動は、その行動の個性によって不確定な色々な感情を僕にもたらしてくれる

おもろいな
どんと構えて
どんと受け取る

心よ、心

全てを映す鏡であれ


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