今日はひょんなことから歯について語ろう。

さっきまでスタバの便所で歯を磨きながら考え事をしていた

インド人は暇つぶしに歯を磨く、インドのバラナシで仲良くなった同い年のスジーは、いつでも先がブラシのようにくだけた枝をくわえてしゃべり、ガンジスを小舟で渡る時なんぞは、いっつもその枝で歯を磨いていた。(彼は渡し船を生業にしている)

俺は昔から歯磨きが嫌いなせいで、よく虫歯になった、それから歯を磨くようにはなったけども、それは義務のような感じがしてしかたがなかった。

けれど、よく思い返してみると、インドのスジーや東北で出会ったヨガの先生はいつも歯を磨いていた。

歯を磨くこと、これはすでにヨガの実践であると思う。

人は自分の体をともに生きていながら、自分の体の部分に触れ合うことがあまりに少ない。

かれら歯磨き愛好家たちは、常日がな歯と触れ合い、自らの部分を磨きあげるとこに余念がなく、さらには自分の一部を愛撫することで、自分に対しての関心を忘れることがない。

通常人が自分の歯と出会う機会はあまりに少ない、朝の10分夜の10分ぐらいではないだろうか、けれども彼らはいつでも歯磨きをくわえ、同時に常に自分の歯と共に人生を生きる。

敬愛する画家、フランシスベーコンは絵を描くヒントを写真から得ていた、写真を元に描くのだ。

そのベーコンが多用していたのが、歯科医の教科書などに用いられる、虫歯やその症状のあらゆる種類の歯の写真であったという。

ベーコンは、人間のリアリティにどのような角度から近づくかに常に頭を悩ませていたが、ついに歯に出会ったのだ。

「骨」とは通常、それを基礎として肉がまとわりついていてそこに皮膚がくっついて人体は構成されている。
ゆえに、我々は骨、骨格をより本質的なものとして捉えていて、「あいつは骨がある」などと形容することがある。

しかし、我々は「歯」の存在を忘れていないだろうか?
歯、それは肉から突き出た骨である。
ここにおいて肉から骨が生まれることもまた現実にあり得るというコペルニクス的な転倒が起こる。

歯を磨くという儀式、それは本質を磨くことであり、「骨のあるヤツ」になるためのヒントにもまたなり得る。

骨を磨き
自らを高める

常に自分に自分の肉体の現状を教え、またそこからの飛躍を目論むのがヨガの意味であると思う。

歯を磨くことで、俺は俺の歯と出会う
暇があれば歯を磨けるよう、常に歯磨きを持ち歩こう

10年後には、ファッショナブルな歯磨きが多様なサングラスのような具合にたくさん生まれ、街中を歯を磨きながら歩く人々がいることを願う。
別に願わない。

俺の大好きな画家ジョンミッシェル「バスキア」は「study of jow」という絵を描いた、かれはアゴについて一生懸命彼の言語で定義づける。

なんかそれ、思い出した
夕暮れの琵琶湖周辺スタバにて

他意はないたわいないわいのはなし。

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