鷹ヶ峰の中腹には、京見峠という名前の峠がある、そこの木々はまっすぐと太くて昔から京都の人々はこの木々を尊敬していた。

その山のお腹のあたりには、氷室町という小さな町がある、うまい水が山のあちらこちらから流れ出て、冬になるとうまい氷がとれる、その氷はおが屑につつまれて夏まで氷室に保存される。
1トンもの氷が夏には25キロほどになる
それを昔この町の人々は天皇に献上してたらしい。

水場の近場の老人が言う
この水は地下水で60メートル下から溢れでよる。

水場の近場にある立派なログハウスで喫茶店をする別の老人が言う
わしはこの山の持ち主じゃけど、あれは山水じゃ、地下からなんぞ出ん。
あとから来たもんらぁが、我が水のように知ったかぶりしちょる。

僕も、また、噂を嗅ぎつけてやってきたハイエナだ。なにも言えまい

しかしその噂の何を嗅ぎつけたのやら?

水場にはじめてやってきた時
一口飲んだその後で、一口一口と一口が止まらない、一口も集まれば山となるで、満腹になるまで飲んだ。

そして帰ったらもう、水をくみに行く算段してる。
水をくみにペットボトルに3本入れて、そのついでにまた満腹なるまで水を飲む、んで帰ったら水をたっぷり使って茶をわかし、スープカレーを作り(薄味)そしてその水で米を炊く。

水を使用した全てのものに、あの山の力を感じる。

そしてまたあの山に呼ばれるのだ。

僕はこれを妖怪「呼び水」と呼ぶ
この現象は、僕の嗜好よりむしろ、水の性質で理解した方がはやい。

人間の体の70パーセントが水である
そして僕は満腹に山の水を飲む、山の水が僕の身体に満たされる。

ここに2つの水滴がある
ぽとっぽとっとすりゃ2つの水滴は一つの水たまりになる。
水と水はくっつく性質であることがわかる。

これを僕は「ウォーターシンクロニシティ」と仮の名を与えて呼ぶ

水と水はなぜくっつくのか?
これは深い問いだ。

僕が考えるに、水と水はなにか引きつけ合う力があるのだと思う。

僕は昔からなんとなくこのようなことを考えていたのを覚えている。

「似たもの同士は引きつけ合う」

人は自分と似ているものを嫌うという言葉をよく口にするけども、その反面で自分と似ているものを愛するという方を忘れてしまってるんじゃないかと思う。

基本的に、似たものを引きつけ、似たものに引きつけられるんだ。

中国拳法の極意とはこのことの応用にある、相手に同調し、解放する力で勝るのだ。
つまり相手を真似、引きつけた力で相手をコントロールする力をいう。

日本の剣術もしかり
柳生新陰流の奥義とは「水面が月を写しとるのと同じように動く」というものだ、新陰流の「陰」とは相手を真似するという意味だ。

恋愛とはまさにその引力を指す
相手の中に自分を見、それを愛する、といった風に。

旅の引力である「自分探し」もまさにこれだ、自分が自分に似たものに引きつけられる現象だ、旅人とはつまり妖怪「自分探し」につかれている状態なんだ。

話がぶっとんだが

僕はこう考える、体内に吸収した鷹ヶ峰の水が、鷹ヶ峰の水と引き合うことで、僕は再び鷹ヶ峰へと向かってしまうのだと。

その意味で僕は、山の細胞の一部になった気分だ。
そして晴れて素直になれる

山の水が呼んでいる、さあ帰ろう

世界には引力が無数ある
昨日の自分のしたことが今日の自分の引力になってる。

1回目のパチンコよりも
10回目のパチンコの方が簡単に行ける
それは10回の間に引力を見出したからだ。

同じように僕は夜の森にでかけては、木登りをする。
僕は夜の木の上にも引力があることを知っているからだ。

引力を発見したのか、創造したのか、そこに境目はない。

ただ引力は存在し、見つけることも、創造することも、自由だ。

どんな辛いことも、習慣という名の引力に結びつけてしまえばたやすい

それが容易ではないのは
世間体や常識、既存の習慣、自分の外からの命令形のあれこれが違う種類の引力(言うなれば反引力)をつかって、自分を常識や既存の習慣に引き戻してしまうからだ。

一度でいいから信じてみよう

水の引力を

自分の好奇心がまねいた新しい風の引力に純粋に引かれることを

古い引力を振りほどき
新しく引かれるこの身を信じて
導かれようじゃないか

のどかわいた


iPhoneからの投稿