最近では、350円を払ってでも、おいしいコーヒーと静かな空間を求めて、近くの喫茶店に行く。

毎日宿直で、昼すぎまでなのに加えて一泊旅行もあったので、まあまあしっかり働いている方だ。

ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を読み終わった。

良い本は、読みたくなる動機をこちらから用意しなくても日常の間にテンポよく訪れるものだ。

この本を自然と読み終わった時、僕はしっかりと人の眼をまっすぐ見つめることの勇気を与えられた。

ロレンスは「チャタレイ夫人の恋人」ムダな贅肉を一切無視して、伝えたいことを伝えたい以上には一切伝えない覚悟のもと、骨で書く。

この本には、宇宙を構成する粒々の一粒のほんとうが描かれているだけだ。
自尊心を攻撃する自尊心と、自己愛への集中は、最後のページまで尽きることがない。

僕は、今まで何度だってそう悟ったかもしれないけれど、また一度「僕は正直に生きていいんだ」そう思った。

ありがたい時、人前で手を合わせることだってしていいんだ。

美しい人を美しいものを見る眼でみつめて「美しいですね」と言ってもいいんだ。

マジメに見えるような歩き方をしてもいいんだ。

そうだったなぁ、できればまっすぐに歩いてみたいと思ってたなぁ

僕が追いかける言葉がある
「正直ドクロ」

それは僕にとって、自分の正直の先に光る旗印のような言葉だ。

生活は全て人前だから、できない踊りがある、けれどもし、この世界の全てが真っ暗だったら?
全ての人間の目ん玉がつぶれたら?

僕はきっとほんとうの表情で笑う

ほんとうは、毎日、もっと感動して生きているんだ。

ほんとうは、水が動いたり、氷になったり、雲になったり、雨になったり、その表情の豊かさに、僕の表情も豊かになるはずなんだ。

人だけが、僕に恥じらいの心を与える

けれども、僕は人に恥を与える人間にはなりたくない、大人は子供に恥を教え込むことで恥ずかしくない大人にしたてあげる。

駅を歩く人々は、電車で電話する人を一瞬ぐっと見つめ、酔っ払いやコジキを無視するように横目で見る

その眼からビームが出て、見られた者に恥を植え付ける。

けれど、僕は嫌だ。
僕は自分の眼を監視カメラにすることを拒む。

僕の眼には、その眼がみつめるものがある。
まったく無意味な、眼球を泳ぐホコリであったり、水滴が水面にはじかれる瞬間であったりだ。

それに僕の両手は、好きな人を掴んで放さない、なんてことを知らない。

僕は、自分が所有するものだけを所有して生きていく。
そして、所有しているものなんてなにひとつないんだ。

僕の仕事場は「狂気」が集まる場所だ

上の連中は、クリスチャンでそれでいて権力者だ。
そして統括されるのは、「精神障がい」というコードネームを持った人々だ。

一方の連中は、自分の本質を信仰と社会貢献とそれに権力によって塗りつぶした狂人だ。

もう一方の連中は、自分の本質を、権力と薬物によって塗りつぶされた狂人だ。

お互いに、節々の場面で、水漏れを起こし狂気を吐き出す。

どちらかというと、僕は上の連中の狂気の方が致命的であると思う。

人格が権力や自分によって、あまりにも複雑に抑え込まれていて、うめき声をあげるのもやっとの状態だ。

僕は、この仕事を愛している

狂気が人間の「ほんとう」だと考えているから。

この仕事場には人間のほんとうが集まる、人間たちが「正直」を吐き出す機会があまりに多い。

同時に僕は僕の「正直」で返す。

僕は正直に話す、自分が職員であるという自覚なんて一切持たない、管理する側には死んでもまわらない。

意地でも友達になる。

ウンコを投げつけてきたらウンコを投げ返せるような勇者になりたい。

僕は狂人を自負して生きてきたけども、もう、、
狂人のマネをするのはやめにしていきたい、狂ったふりする冷静な精神は、結局たいした結果をもたらさないんだ

心が!

僕の真ん中には生きている!

僕は、利用者と一生懸命話をする、彼らは皆、薬と病気によって活発に働かない脳みそを言い訳にする!
記憶力がなくなり、理解力がなくなり、判断力がなくなる

断言できる!
脳みそなんて、世間体が生み出したものだ!記憶力?判断力?理解力?
気をつけろ!どっかに誰かのモノサシがまぎれこんでる!

僕は、悲しくなって、一生懸命うったえた!

「頭なんか働かんでも!心で生きたらええんですよ!」

みんながほんとうに、心の純度を保ちながらも、頭がまだ、ギリギリ生きていてそれらが心を抑圧してるんだ。

彼らこそ世間体に生きている、あらゆる人間の目ん玉の仮面をかぶった監視カメラのもとで、ひたすらに恥を植え付けられて、その視線の緊張に耐えかねて、自分でもわけのわからぬ踊りを踊ってしまう、かわいそうな人たち。

けども、僕だってまったくそうだ。

まっすぐ生きるには勇気が必要だ

綱渡師の危うい歩行

僕には、そちらの方が人間の普通を歩いているように思われる。

この地面、それはこんなにも平坦なものなのか?
この地面は、一日に四万キロ回転する球体の一部だということを忘れたか?
何が忘れさせたのか?

生きることは本当にこんなに、たやすいのか?
精神はこんなにも毎日同じところを揺れるものなのか?

心を碁盤の目に刻みこんで、レールを走らせ、自我という名の列車を走らせる、街の空気が、ひしめいてる。

自分が目の当たりにする、正直な風景を「正しい見え方」に整え直すもう一人の自分が存在する。

僕は思う、個性とは「歪んだ常識」だ
それは常識からの距離で、客観的に計られるものであると。

そして、主観的自分がなすべき個性というものは、一切の常識を無視するのではなく、忘却して、歩くこと、当たり前に生きる中にあること。

それは自分の生活の中にあると考える。

ちょっとの風に影響を受ける、道に転がるうまい棒の袋でありながら、賢くも狂気的に笑う満月であること!

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