語るゼ。

芸樹の作品は、僕の感情をある角度からなぶってくれるおかげで、自分の立ち位置、僕の感情の一つのパターンを知るよいきっかけになると思う。

芸術の作品、それはどこにあるだろう?
芸術作品は、あらゆる額縁やケース、段ボールをぶっとばし、『お手を触れないでください』や『これ以上近づかないでください』のボードをぶっ壊しながら、美術館を粉砕して街中に飛び散る、いまや気化した芸術の空気は、街や家や部屋や小箱の中にまで、偏在する。

目に触れぬ、なんということは決してない、眼球の裏側にもそれを発見することはできる、日光のしたまぶたを閉じる、閉じた上と下のまぶたの境目が、うっすらと光のラインを描いてるのを見たことがあるか?

それはど田舎の星空を突っ切る天の川
のごとくに、白昼どうどうとまぶたの裏側に息を潜めている。
それを僕たちは1秒で発見することができる。

類推の頭が、一つ一つの物事を一つ一つの抽象的な記号に置き換えて、脳内をシナプス虫という名前の生物になって走り回る、シナプス虫は似たり寄ったりのものたちが頭の中で勝手に連合したり喧嘩したりする。

天の川シナプス虫は、まぶたの裏の上まぶたと下まぶたの境目シナプス虫と出会う。

これが芸術だ!感動はあるが、なんの意味もない!
けども、ほんの少しの逸脱する勇気をふるいたたすことで、こんなことだって文章にしてしまえる。

自由とはある側面では、やっぱり無責任と同義だ、殺人、姦淫、泥棒、果ては綱渡りにゴビ砂漠横断の自殺行。
人はその精神によって自分の肉体を自在にできる自由を持つ。
それは自分の肉体に対する無責任そのものだと思う。

けれども、僕は東北のボランティアや現実に存在する多くの人物たちとの関係に合掌して、自他の存在を分かち合う、自他の感情を分かち合う、実践の中で。

無責任なる自分の自由よりも、つながりを感覚の裏側で認識できるような「心」というものがずっと気になっていた。

俺は自由だ!そんなことはもうわかってる、つながりを無視した発言や行動、芸術は、寄る辺のない孤独感を僕に感じさせる。

よし、命を自由に使えるということは、インドで簡単に生きそのノリで簡単に死んでいき、そして犬に喰われるインド人とインド人の死体が教えてくれた。

けども、その反面で、、
彼らのこの地球との、人生との、宗教との一体感にきっと日本人は妬みを感じるはずだ。

川から産まれて川へと死んでいく彼らは、始まる前と終わった後を乳の川へと接続することで。人生の焦りと恐怖からすっぽりと解脱する術を知っているような、確信を眼に輝かせているのを僕は感じた。

俺は、自分のことばかり考えすぎて自分のことばかり発言しすぎて、自分を地球から放り出して宇宙の闇にまで送りこんでしまった気分になる、確かにこれが自由。

先を行く、沢庵禅師が、こう言うのを聴いた「たしかに、片方の手にその宇宙での彷徨の感覚を掴み続けろ、でももう一方の手を見ろ、空っぽだ、もう一方の手を満たせ」

木が羨ましくて、同時にかわいそうだった!根を張ることで、大空に広がる枝葉に強さを見た!けども、彼はアメリカに行けない。

僕はアメリカに行った、(行っただけだ)根を張りたい。

根?

木に尋ねる、俺の根はどこに生やせばいいのか?はやす土はどこにある?
僕の身体が応える。
それはお腹の中にあった。

僕はその時にはじめて「心」を感じたんだ。

このお腹の空っぽな部分から、行動を起こせばいいんだな。

「心が豊かな人になりたい」

それが僕のスローガンになった、心を定義付けることを、徹底的に僕は避ける、けれども、心のヒントになるような行動は全て行っていく。

心を通わせる、心待ちする、心を入れ替える、心配する、中心を目指す、心遣い、心尽くし。

心を真ん中に、仮設して、僕はその円周のあらゆる角度から、それを模索し、掘り下げる。

そのカタチは台風に似ていた。
昔僕は歓喜した、ニュースで台風を見ていた時だ、丹田呼吸というものに集中し、自分の中心からパンチを繰り出すといくことをしたくて、悩んでいた時だ!

ニュースで見た台風は、真ん中から広がるような、また真ん中を目指すようなパワーで、すごい影響力を持っていた。

その核心となる部分つまり「台風の目」がないんだ!空っぽなんだ!

そうか!

真ん中なんてない!けども、真ん中へ向かう運動はあるんだ!

僕にとっての心はこれとまったく等しい、それは存在が闇に浮かぶ光の量に比例して色濃く存在するのとは、まったく反対の方程式をもった存在だ。

つまり、マイナス。
ブラックホール、台風の目、暗黒物質に、反物質、無、全て引き算によって存在するものだ。

こないだ僕は、昔の日本画家の展示を見た、その月の存在感はすさまじかった。けれど、よく見るとそれは、描かれていなかった!

よく見ると、月の周りに陰影をつけるだけで、月に月は一切描かれていなかった!月のふちを描くことで月が産まれていた!

昔の日本人の持つ心は、こんな感じの仏教的な「無」の使用方法にあると思う。

線とは、命を模写するものではなく、線と色によって命を浮かび上がらせる、それは存在に対するあまりにも慎ましい尊重の念を感じさせる。

この不思議な世界の中で、このテレビやゲームや本や宗教や機械やルールだらけな世の中で生きるこの身体に、心があると仮定すること。

心を、このグローバルに圧縮して全世界に散りばめられた心の断片を、少しずつ取り戻していくという作業に身を捧げること

一番近いものに向き合うこと。
芸術なんて名のつくものを全て黙らせて、カロリーの全てを生活に注ぎ込むこと。

これ以上なんてきっとないんだ、自分のカロリーを会社の求める、意味のわからない商品や形骸化した過去の概念を守るために燃やすべきではない。

「繰り返しを拒み、毎日の発想に全人生をかけて挑み続けること」

これは僕が尊敬する、綱渡り師のことばだ。

僕はこれからの人生を全てかけて、この腹の内側に「心」というものを動的に編成していく。

心それは一つの引力で、あらゆる言動や挑戦を巻き込んで僕を構成するものだ。



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