【その思考を自分だと思わないこと】余計なことをやめると生産性が上がる | カボチャの馬車でドリフトする方法♡

こんつあ!

靴を買いに行って五本指ソックスを履いていることを思い出して試着をしなかった景呼です。


まだ恥じらい持ってるもん…お願い


いやぁ、五本指、いいんですよ🧦

しかもハイソックス笑


こーゆーの履いてるのん、オバハンになったなぁと思いつつ、冷えるわけにもいかず煽り



昔私は常になにかやらなあかん気がしていました。


それが仕事であれ家事であれ健康関連であれなんであれ、です。


常にこのままじゃいけない気がしていたし、いつかどこかの理想の自分を目指して頑張っていました。


だから

やりたい

ではなくて

やらなきゃいけない

と思って様々なことに勤しんできたと思います。


そしてその時やりたいと思っていたことの大半は不足感を埋めるためにやりたいことだったのだと今ではわかります。


ほんで、まだあってそれがどんな動機だろうと

やりたい

と思うことがないときは焦っていました。


つまりどちらにしても何かをしていないと落ち着かなかったのですよね。


何もしない、ということに落ち着けない。

いつもの繰り返しになりますが何もしないということは必要性のあることをしないという意味ではありません。


普通に日々を営んでいきます。


むしろ、余計なことをやめると生産性は上がるというパラドックスがあります。


いらん苦痛を感じていないとサクサク動けるので、運動だろうが料理だろうが前はめっちゃ嫌だと思っていたことも、なんなくこなせるようになっていきます。


そうすると、時間もできます。

その余白を余白のまま楽しめるようにもなります。


前は余白ができたらそこをまた何かで埋めることでなんらかのことを「やってる感」をゲットして安心する、ってなことをきっとやっていました。


もちろん、その自覚なく。


その時に感じていたことは明らかに不満感でした。


こんなに頑張ってるのに。

みたいなことだったと思います。


のに。

がつくということは、なにか報われないものを抱えていたということです。


要は理想の自分になれない、ということですけど、それは今ではないどこか、つまりありもしない場所を見ているから永遠にたどり着けないわけです。


余白を充実感とともに過ごすと、常に追いかけられるように何かを「しなければならない」ということもないです。


でもやっぱり何かしないと行けないような気がしてくるときがあります。


その時は、その思考を相手にしないようにしています。


だって、する必要のあることはしているし、したいと思ったら誰に言われなくてもそのように勝手にしているものだし、というか止められてもやるし笑、


何かを足りない、埋めないとならないと思っているのは無価値感を元にしたまやかしだと気がついているからです。


無価値感は、あくまで無価値「感」です。

そんな感じがするってだけで、それは実体もないし事実でもありません。


あなたは無価値なんかじゃなく、素晴らしい存在なんだよ!

と言いたいのでもありません。


存在そのものに価値のあるなしを挟み込むからおかしなことになるだけで、その二元性を持ち込む必要がそもそもない、ということです。


私達を含むどんなものも、ただそこにそれとしてあるがままに在るというだけです。


思考のゴチャゴチャを晴らしたときに直接的に見える世界は、なんともシンプルでいてかなり完璧で美しいです。


足りないものは全くないし、もちろん過剰なわけもなくて、すべてがちょうどきっちりにそのようなんです。


それそのものとして、とんでもない完璧さで常にそこに顕わになっています。隠されているものは何一つありません。


だからどこに探しに行くでもなく、ただ、今この瞬間に誰のもとにも剥き出しのままで現れています。


おっ、なんか意味不明になってきたかな笑?


とにかく、どこにも行かなくても良くて何もしなくてもよいということです。


絶え間なく流れ込んでくる思考を自分だと思わないことです。


そうすると何もしていなくてもうっすら楽しくて、とても満たされていることに気が付きます✨



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