こんつあ!
近所の王将に並んでる羽生結弦選手を見た景呼です。
いやマスクしてたし作業着やったし本人なわけないと思うけど、わからんやん(笑)!
絶対ちゃうやん。て思うけどさ、お忍びの変装で絶対こんなとこにおるわけないと誰もが思うから本人である可能性は残されてる。
そのすぐ後に通りすがったニイチャンがケミストリーのサングラス逆にぶら下げてる方に似てたけどそっちは絶対別人でした(笑)
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そんなことはマジでどうでもいいんですけれども、昨日の続きです。
過去記事を加筆修正にてお届けします。
自己肯定感について。
上がるものは下がるもの。
その二極性から離れることが真の生きやすさへの道なんだよ~的なことを書きました。
どーやって離れるねん??
ということなんですが、実はとても簡単なことです。
そしてこの簡単なことこそ難しい。
自己を肯定する気持ちは、上がるときもあれば下がるときもあるものだ。
ということをますは理解する。
当たり前のことなんですが、ずっとアゲアゲの天国状態のように見える人がネットの中にはたくさんいたり、SNSの切り取りだけを見て他人をそう判断してしまうことは多くある昨今ですから、まずはそこから。
生きてる人間なんですから、自分のこといい感じに捉えてルンルンの時と、その反対の気持ちになるような時があるのは当たり前のことなんですよね。
だからそれを本当に理解するだけです。
正しい理解にはそれに応じた納得が必ず起きます。
でもどうしたってキラキラした人のSNSなんか見て「わあー、やっぱりすごい、それに引きかえ私なんて…」と下がってしまいますよね。
それって本当にただの反射なんですよ。
指先に針が当たって思わず指を引っ込めるのって反射じゃないですか。
それと同じレベルで誰か機嫌のよさそうな人を見て反射的に「私なんて」が飛び出してきて、しかもそれと同化してしまっている。
そういった日々の気にも留めないレベルの反射や反応から一歩引いて客観的になることからすべては始まります。
言葉にするととても単純なことですが、やってみると難しいです。
どうしても反射的な感情に自分が持っていかれてしまうからです。
その感情が「私」だと思って生きてきたから無理もないことです。
あとなぜこれが出来ないかというと、下がって苦しい気持ちになったときに、いても立ってもいられず我慢ができない、ってことがあるのですよね。
なんとかして今のこの苦しい気持ちから逃れたい!!→何か行動実践する
ってことが辞められないのが原因です。
回避行動を起こすことに慣れすぎている。
しかも回避行動ではドーパミンが出ますから脳内の報酬系の回路ががっちり出来上がっていることも原因です。
自己肯定感を上げるメソッドを何かやることも回避行動のひとつなんですね、本当は。
回避行動をしていれば一瞬その苦しさを紛らわすことができるから、引きでみたらそれはループなんだけど自らそこに飛び込んでしまう人は多い。
私が書いていることは言葉を変えると、自己受容ということです。
この自己受容というのは言うのは簡単で体現するのは容易でない。
なぜなら自分の持つ傷や闇を回避したり無いものとして扱うことなく共に生きていくことは、最初のうちは絶望も感じますし、根気も必要ですし、その時だけでも逃げていた方がはるかに楽なことだからです。
だけれども逃げずに諦めなかった人にだけ見える景色というのは必ずあります。
肝心なことは「自己肯定感を上げて問題を解消しよう!」ではなくって「逃げない」。
どんな自分も抱き参らす。
しつこいけど、我慢するのとは違います。
そして諦めることとも違います。
一歩引いて客観的になることです。
とはいえ、もう逃げるしかないというぐらいしんどい局面に今さらされている人もいると思うんですよね。
そういう時は逃げていいときかと思います。
死んでしまうぐらいなら逃げた方がいい。
その時は何でもいいからとにかく少し楽になる方法を探したらいいと思います。
私は自己肯定感を上げることが「悪いこと」だと言ってるのではないんです。
それが今必要だという人もいるし、自己肯定感を上げるメソッドをしている人を否定する気もないです。
この記事に向いている人は
なんだか色々一周回ってきてそろそろ色んな二極性から卒業したい、お気楽な方へ進んでいきたい人です。
もう終わりにしたい人向け。
文字で伝えるのは本当に難しいと書きながらいつも思います。
それぞれの受け取り方があるもんな~。
ま、それはそれで、いっか。
どなたかの参考になれば^^