誰かを悪者にすると芽生えてしまうもの | 花と心の学び:茨城の花屋が贈る、花と心理学で自己成長へのお手伝い

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花と心の学びをテーマに、茨城のお花屋が提供する自己成長の道。心の豊かさを求める方々へ、花の力で心を癒し、育みます。

 ※過去記事再掲載中

 

 

 

 

 

まだ11月だというのに

年末の気忙しさを感じる今日この頃・・・

 

 

気づいたらまたまたブログを放置していました・・・滝汗

 

ということでお得意の過去記事に助けてもらいます

 


 

 

誰かの言葉に悲しくなったり

誰かの行動に傷つき寂しくなることは

 

あなただけじゃなく、

誰にでもある

 

 

私ももちろんある

 

 

「そんな思いをしてどうして普通にしていられるの?」

 

例えば、陰口を言われていたり

批判されていたり

そういう好ましくない状況に置かれてるとき、

 

その状況を知っている人から言われることもある言葉

 

 

「そんな思いをしてどうして普通にしていられるの?」

 

「あんなことをされているのにどうしてそこまでできるの?」

 

「陰でこんなことを言われているのに、どうしていつも通りにふるまえるの?」

 

 

私がいつもの私でいることができたり、

落ち込んだりした後でも、

ちゃんと元の私に戻れるのは

 

コソコソしたくないから

 

私にとっては

それだけなのかも(笑)

 

 

 

「こんなことがあった」

「こんなことをされた」

「こんな風に言われた」

 

 

だから

悲しかった

寂しかった

傷ついた・・・

 

 

それを誰かに知ってほしくて

打ち明けたところで

 

何も変わらないことが多いのも知っているし

 

 

 

そうすることで

どうしても誰かを“悪者”にしがちなことも事実

 

 

かなしさや寂しさ

ないがしろににされたことや

わかってもらえないことを

誰かに知ってもらうことよりも

 

 

誰かを“悪者”にしてしまった罪悪感を抱えて

コソコソと生きることの方が私にとってはもっと悲しい

 

 

 

きっとそれは

コソコソとした思いを抱えたままの

誰かを見て

 

 

その人が発する

 

素敵なことばも

優しい想いも

美しい志も

 

違和感を覚えてしまうから

だから自分はしたくないと思うのだと思う

 

 

何が違和感かというと

こそこそしている自分を見ないようにしていること

 

こそこそしちゃっている自分を

置いてきぼりにしていること

 

 

 

きっと私もそうなる

 

だけどそれは私自身がかわいそうだから

 

 

こそこそしないために

自分ができることを選択していたいだけなのです

 

 

 

 

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