確かに、この世には一見、
「自分の力ではどうしようもないこと」
と思えることが起こることがある。
あるとき、わたしはある中年女性に興味を持ち、
会いに行った。
何故興味を持ったのかというと、
わたしの大好きなまた別のある人が、
その人のことをベタ褒めにしていたから。
わたしは、その中年女性はなんとなく、
直感的にあまりよく思っていなかったけど、
好きな人が好きだというから、好きになりたくて、
きっといいところがいっぱいあるのにわたしの目が曇っているのだと思って。
お金を払って、その人が提供している講座を受けた。
ビジネスマインドなどに関するものだった。
最終的にわたしが幻滅したのは、
「日本はもうだめだから、海外移住するためにお金を稼ごうと思っている。」
と言うその言葉。
昔、イタリアに住んでいたとき、あるイタリア人は言った。
「イタリアはもうだめだ」と。
シリア出身の、アジアを拠点に仕事をしている友人はいつも、
泣きそうになりながら言う。
「シリアはもうだめだ」と。
イタリアもシリアも、それぞれの理由で、
「もうだめだ」と思う理由はそれなりにあるのは、理解できる。
ニュースで流れてくる、
目の前の事実が、そう思わせる。
それはわかる。
日本を見ていても、
前述の中年女性が「日本はもうだめだ」と思いたくなるのも、
理解はできる。
だけどわたしは、その人を心から嫌悪した。
それは、自分が最初に正解だと思ったこと(=この人、別に素敵じゃないと思ったこと)を、
そもそも信頼できなかった自分への嫌悪でもあったのだと思う。
わたしは、海外に住んでみたり、
海外旅行をするたびに、ある思いが深まるのを感じていまして。
日本に生まれて、日本人で、わたしは本当によかったと。
そして更に思う。
わたしが選んで生まれたこの国は、
絶対に何があっても大丈夫だと。
これを「ゆだねる」というのかな。
自分自身のことも、
自分を囲む環境のことも、
「目の前のことを全力でやる」
「やりきったら、あとはゆだねる」
これしかできないし、それでいいのだと思う。
何を以て「大丈夫」だととらえるのかは、
その人次第ですけどね。
自らを危険に晒してでも、
対岸に見える危機に立ち向かうことが好きな人もいる。
それはそれで、勇敢で美しい行為だと思うし、
ある種のありがたみも感じる。
だけど、わたしはわたしのできる範囲で、
相変わらず自分の快いという感覚に頼りながら、
今のわたしの最大限を、粛々と続けるだけ。
わたしの大好きなこの国は、何があっても絶対に大丈夫だと、
静かに想いながら。

