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つづき


天水分神さま
国水分神さまとは

水源や
水路の分水点に祀られることの多い

速開都比古神さまと
速開都比売神さまの

御子神さまです
 








社伝によれば、崇神天皇10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」と言い、出雲振根杵築大社から生大刀生弓矢を勘請させ大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。

崇神天皇62年、丹波国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。

出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。

押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。

山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。

底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」と宣託した。

天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(後の垂仁天皇)を当社に遣わして祀り、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り、相殿に四神を配祀したという。




社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。延喜式神名帳に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されている。「上水分社」の呼称は、美具久留御魂神社富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。

元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃した。このため建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。延元2年(1337年4月27日、最高位である正一位神階を授けられた。また延元5年/暦応3年(1340年)に正成の子の正行が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆が記されている。

中世、織田信長軍の河内国攻略の際に社領を没収され一時衰退するが、豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧された。

1873年明治6年)の社格制定の際に付近18ヵ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列格した。1907年(明治40年)に神饌幣帛供進社に指定され、氏子地域内の17神社を合祀し、1913年大正2年)に府社に昇格した。


宝石ブルー建水分神社宝石ブルー






うちの心に 響いていた存在は

第96代 後醍醐天皇

と、そして


楠木正成公。


こちらの 御二人さまが


新生地球の 

世界の雛型 日本列島の

地下水脈の 新たな流れを、

観せてくれていたのでした。