陰の立役者の、「お陰様」。✨✨✨ | みらくる☆彡

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つづき

より


ご由緒
創建は第十代崇神天皇の代、
疫病が蔓延し農事を怠った時代に
諸国に池溝をつくって農事を勧められ
この地一帯に水神を祀ったと書いてあります。

後醍醐天皇の代で元は山下の水越の畔にあった社殿を山上に移し、
楠木正成公に再営を命じ
神階正一位の極位を授け賜った。

当社は霊峰金剛山の総鎮守で古来より総十八か村の産土神で
累代この地を本拠地とした楠木氏の氏神でもある。

織田信長は河内の侵略に際してこの神社を没収しましたが、
豊臣秀吉はその後この神社を再興したのだそうです。


▲建水分神社(筆者撮影)


やはり菊水紋がありました!



建水分神社

ご祭神

(中殿)

天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

(左殿)

天水分神(あめのみくまりのかみ)
罔象女神(みつはのめのかみ)

(右殿)

国水分神(くにのみくまりのかみ)

瀬織津姫(せおりつひめ)


▲建水分神社(筆者撮影)




ご祭神は宇宙の根源神と水の神。
大自然の神様。
出雲の神様です。
国家神道では祀られない神様です。
後醍醐天皇がこの神々を
お祀りされていたということは、

古い神々を崇敬されていたということです。

南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の

天皇の対立は、
神と神との対立です。

南朝は瀬織津姫を祀っていた。
北朝が祭っていた神は?
北朝は持明院統・・・持統・・・アマテラス?



後醍醐天皇は
瀬織津姫を封じて
国家神道や仏教を信仰された天皇ではなく、
瀬織津姫をお祀りになられた天皇でした。
吉野は瀬織津姫の聖地です。
後醍醐天皇はそれゆえ
吉野を拠点にされたのです。



後醍醐天皇は、乱世を建て直すべく
摂政関白の手ではなく
天皇ご自身が政を取り仕切ることを
目指しておられました。
しかし、
天皇と公家が中心となっての政(まつりごと)に
武士は激しく反発し、
足利尊氏は反旗を翻すのですが、
それはこれまでの律令制としての政ではなく、
神を最上位にした政だったのかもしれません。

瀬織津姫をお祀りされるということは
律令国家になる前の
国造りをされるということですから。

その政は天皇が神の上に立つのではなく、
神の御真意を地に降ろす天皇としての
本来のお役目を奉じられるということです。


後醍醐天皇が楠木正成公に

絶大なる信頼を寄せられていたのは

後醍醐天皇は夢を

ご覧になったのがきっかけでした。


菩薩の使いの二人の子どもが夢に現れ、

「これよりしばし地上は乱れましょう。

御身が隠れる場所もないほどです。

ただ、あの大樹の南の陰に

天子のための席を設けました。

しばらくはその木陰でお過ごしなされませ」

とお告げされたのです。


大樹の南とは木の南。楠木。

後醍醐天皇は神のご意思に従い、

河内の土豪に過ぎなかった楠公さんを

頼りにされたのでした。

(6)悪党といわれた陰の立役者・楠木正成_b0409627_01125407.jpg


後醍醐天皇は忠誠を尽くしてくれた

楠木正成公への感謝のしるしに

菊の紋を下賜しました。

しかし楠公さんは天皇の家紋を賜るなど

あまりにも身に余ることだと辞退し、

菊の花が川の流れに

ゆっくりと身を任せているような

美しい家紋として

使わせていただくようになったのです。




菊と水流。

天皇と水神。

見方によれば

菊は太陽にも見えます。

後醍醐天皇と楠公さん。

天皇と河内の土豪。

このふたりの関係はまるで

ニギハヤヒとナガスネヒコ。

ナガスネヒコは最後まで

饒速日命に忠誠を尽くしました。


楠木正成公は最後まで

後醍醐天皇に忠誠を尽くしました。



金峰神社は奈良・吉野の神様を

お祀りされているのだと思います。

吉野には金峰山寺も水分神社もあります。

吉野の神は瀬織津姫なのです。



後醍醐天皇の夢は

ついに実現しませんでしたが、

歴史は何度も

神と神との戦いを繰り返してきました。

そして今、

神々の世界はやっとその戦いに終止符を打たれ、

人間界に波及していくことになります。