ここのところ騒がしい、UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の世界記憶遺産の問題は、神話と歴史の区別がつかない国であることを世界に向かって叫んでいることになるのだろうな。
もちろんどこの国にだって建国神話はあります。「自由の国アメリカ」とか「民主主義の祖国フランス」とか。
ただ、今、日本への外から視線で問題になっているのは、近代国家建国の神話ではなく、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」そして「靖国神社」へと続く、より狭い「皇軍神話」群が問題になっていることを認識すべきだと思うんですよね。この皇軍神話体系のなかに、例えば、ハル・ノートがどうとか、真珠湾陰謀論だとか、パール判事の無罪論だとか、WGIPとかの客観的に見れば狂信者の荒唐無稽な「物語」があるわけで。

歴史への感情旅行 (新潮文庫)/安岡 章太郎

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“戦時中、外地に従軍していた慰安婦には軍が関与していた、と、そんなことが最近になって言い出されたのは何なのか、私は不思議な心持ちになる。だいたい軍の関与なしに従軍慰安婦なるものが存在するわけは有り得ないではないか――。
私が軍で行っていたのは、旧満州のソ連国境に近い孫呉だが、そこでも師団司令部の近くに慰安所があって、営門に「満州第何百何十何部隊」とした大きな標札が出ており、誰の目にもそれが軍の関与する施設であることは明らかだった。”

安岡章太郎は1920年高知市生まれ。安岡家は、幕末の土佐で多くの志士を輩出した勤皇党の一族。戊辰戦争では迅衝隊の一員を出し、明治になると自由党の党員にもなります。
そんな家で陸軍で後に獣医少将となる父の子として生まれたのが安岡章太郎です。
1941年慶應義塾大学の予科に進みますが、44年に学徒動員で軍に入営します。第1師団に配属され、駐屯地は満洲国黒河省孫呉。


地図はGoogleMAPより

「吹雪にあけて また暮れる 北満州の国境 酷寒零下四十度♫」と歌われた第1師団の駐屯地は、冬は零下40度を下回る、ソ連との国境に接する北の涯です。

“もっとも、その慰安所の構内に入ったことのある者は、私のまわりに一人もいなかった。
私たちは、防空壕掘りの使役で師団司令部や偕行社(旧陸軍軍人の親睦団体)などへ出掛けたとき、往復の途中に何度か慰安所の前を通ったというに過ぎない。第一、私たち初年兵には外出は一切許可されず、日曜日や祝日で演習のないときは、内務班に居残って、古兵の下着の洗濯や靴磨きなんかにコキ使われるだけのことだ。
~(中略)~
孫呉は元来、北辺の寒村であるが、それでも村の南部には中国人の集落があって、雑貨屋やちょっとした食い物屋が何軒かあったらしいが、そこは特別許可がない限り一般日本兵の立ち入り禁止区域――つまり米軍でいうオフリミッツ――になっていた。したがって普通の兵隊は、外出しても、兵営の他には茫漠たる草原がひろがっているだけの荒野を、無闇に歩き廻って帰るより仕方がない。
いや一軒だけ、軍用の映画館があるにはあったが、そんなところで戦意昂揚映画を見せられたって、面白くもおかしくもないに決まっている。”

孫呉という地名は、孫という氏の一族と呉という氏の一族だけが住む寒村であったところに由来するらしいですが、東京鎮台以来の伝統を持つ第一師団がこんな北の涯に飛ばされたのは1936年の二・二六事件に参加した将校や兵士の多くが第一師団の所属だったからです。
そんな場所にすら慰安所があったのですね。安岡は、“あのイカめしい門構えを想像しただけでも、あのような施設が遊興に適する雰囲気をもっているとは思えなかった”とも記しています。まあ、実際に軍事国家の軍施設へ行ったことのある人ならばその雰囲気とか空気感はなんとなく想像できると思います。

“あれは昭和19年7月下旬、孫呉駐屯の第一師団は、私のいた歩兵第一連隊を含めて全部隊が南方へ移動することになった。
名目上は熱地訓練のための「わ」号演習となっていたが、じつはフィリッピン戦線へ送られるということは、私たち最下級の兵隊にいたるまでよく承知していた。部隊が孫呉を出発したのは、動員が下って一と月ばかりたった8月20日だが、その一箇月間ほどの忙しさは、これまでとは質の違うものだった。
何しろ私たちは一期の検閲がおわったばかりで、中隊戦闘教練をやっとすませたくらいのところだ。それをイキナリ戦地へ持って行って、アメリカ軍と戦争させようというのだから、その教育訓練だけで大変だ。
例えば、敵前渡河演習というのも、その一つだったろう。
これは折り畳み式上陸用舟艇というのを組み立てて、これを担いで土堤から川岸まで運ぶというそれだけの作業だが、実際にやってみると、これがなかなか容易ではない。
~(中略)~
旧満州でも夏の真昼の日射しは暑い。しかし、土堤のうえを吹き抜ける川風は、サラリとして快い。私たちは草原に腰を下ろして、爽涼の気分を満喫していた。
すると班長のE軍曹が、こちらを振り返って行った。
「見ろよ、全軍動員で孫呉の部隊はどこも大忙しのテンテコ舞いだから、慰安所の姐さんたちはお茶っぴきらしいぜ」
ふだんマジメなE軍曹がこんな言葉を口にするとは、私は意外だったが、言われてみるとなるほど、川の浅瀬のところで若い女たちが五、六人、水をはね上げて駆け廻っている。
しかし、その姿は私の考えていた「慰安婦」とは一致し難く、ただの娘さんとしか思えなかった。彼女らは、どうやら小魚を浅瀬の洲の中に追い込もうとしているらしく、なかでも大柄な二、三人が水の中で手拭を拡げながらこっちの方へやってくる。
大きな麦藁帽子に隠れて顔はよく見えなかったが、たくし上げたスカートから覗く脚は、まぶしいくらい白かった。
――女の子の脚とはあんなにもまっ白いものだったのだろうか。私はそんなことを口の中でつぶやきながら、しばし茫然となっていた。”

1944年初夏、太平洋戦争は大日本帝国の敗北へと坂を転げ落ちるように向かっていました。6月19日のマリアナ沖海戦で空母航空戦力が壊滅。7月に入ると、太平洋の島々に立て籠もる日本軍は次々と全滅していきます。日本本土防衛のための絶対国防圏は破られ、日本本土へは爆撃機が直接飛んで来るようになったのです。対ソ連戦のために雪原や冬の戦闘に備えていた第一師団もフィリピン防衛のために移動が命令されます。



画像は、よく従軍慰安婦の写真だとして出回っているものですが、こうした写真を見て、「なぜ笑っているんだ」なんて言う人がいるんですね。「笑顔を見せているのだから不幸なはずがない」とでも言いたいかのように。
これ、今現在のシリア難民の話でも同じだと思うんです。ドイツなどに到着して笑顔で写真に写った難民の姿とか見て「あいつらは不幸じゃない」と認識する人がいるんですから。
日本人のカルチャーにある、そうした同情心の異様な薄さってすごく気になりませんか?他者が不幸であることを訴えると、まずそれを無効化しようとする異様な執念のようなものを。
人間なんですから、戦地の娼館街を歩いたって、スラムや難民キャンプを歩いたって、そこには笑顔を見る機会もあるでしょう。不幸な人びとは常に沈痛な表情をしていなければならないなんてルールがあるわけでもなし。で、そういうこと言う連中はたぶん、生活保護を受けている人やいじめられている子どもが笑顔を見せるのも許せないと言うのでしょう。

“部隊が南方へ出発したのは、それから二週間ほど後であった――。しかし私は胸膜炎で40度近く発熱し、部隊出発の前日に入院して、動員にはかからなかった。
上海経由、フィリッピンに向かった第一師団が、火砲弾薬の劣勢にも拘らず、よく戦ってアメリカ軍を苦しめ、みずからは殆ど全滅するまで力戦したことは戦誌のしるすとおりである。”

フィリピン防衛のために満洲から第1師団は8月に移動を開始。上海で籠城のための資材を師団の予算で買い集めてから輸送船に乗り込み、フィリピンへ。

“先日も私は、大岡正平氏の浩瀚な『レイテ戦記』を読み直すうちに、レイテ島到着のまえに、歩兵第一連隊、四十九連隊、五十七連隊などの一部がルソン島北部に一時上陸したことを述べた一節があり、そこに次のような文句があるのにハッとさせられた。
《ただし上陸用の大発の用意はない。小さな折畳舟艇を使うので、暗夜揚陸は危険だが、それを冒しても上陸させたいという片岡師団長の意向であった。》”



第1師団の片岡董師団長は、マニラ到着までに、部隊が輸送船団で一塊りになっているところを襲われ海の藻屑となることを恐れ、暗夜密かに大隊単位で島に上陸させます。正規の作戦ではないので専用の上陸用舟艇は使えず、満洲の内陸で使っていた川を渡るための折り畳みの小さなボートで上陸させたのです。実際、第1師団は無事に11月9日までにフィリピンでの展開に成功しますが、他の多くの派遣部隊は上陸前に海に沈められています。

1944年12月には、フィリピンに立て籠もる日本軍は早くも補給が途絶え孤立。ここからは文字通りに人が人を喰うほどの苦戦の日々。1万人の兵員でフィリピンに到着したはずの近代日本の伝統ある第1師団は壊滅し、セブ島に移動して立て籠もった45年1月には負傷兵だらけの1000人にも満たない数の兵士しか残っていませんでした。

“一般読者には何の変哲もない文章だろう。しかし私は《小さな折畳舟艇》の字句を見た瞬間、孫呉での渡河演習の場景と、無心に魚を追っていた女たちの白い脚を憶い出し、それと暗夜のルソン沖海域が二重写しに浮かんでくると、たちまち眼の中がくもって、なぜか熱いものがこみ上げてきた。”




リンクしてあるのは、那英の「長鏡頭」。
那英は満洲族出身の歌手。西太后を輩出した一族の出身でもあります。