「かぐや姫の物語」の疾走、観てまいりました。暴発しました。 | オッサン君の映画DEぼーん!

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映画に愛を!
ゴジラから2001年宇宙の旅まで。
古今東西、思う存分映画を語るもんねっ!
愛と怒りをこめて、カーツ1発!
(独断偏見ごめんくさい!!やな人はスルーのコトよ!)


・・・告白します。
泣きました。必死に耐えました。
あきませんでした。

物語と表現に集中していて
「すっかり忘れて」いた。
まったく迂闊であった・・。

あの「曲」が、公開前から「いいなー」と思って
「この曲使うんかー流石」などと思っていながら、
そういえば本編中に使ってた覚えがない。
あのラストシーンの後、
しまった油断した!クレジット、最後の最後に
「ダメ押し」であの曲が掛かるのか!

・・・やめて~そりゃないぜ~(泣)えげつないわーもう・・・
涙腺は一気に暴発してしまった。
耐えてたのに、痙攣状態になって辛抱できなくなって
「ブフー」となっちゃって隣の娘に「サイテー」と言われるわ顔はぐしゃぐしゃになるわ
こんなに困ったのは「ニューシネマパラダイス」以来か。

よりによって元嫁と娘が居る横で・・娘には怒られるし・・。ああ恥かしい・・。
そう、高畑勲という人は、酷い(笑)。

本当に「タチの悪いピッチャー」だ。
宮崎駿は「直球」と言ったら「直球」なのだ。
スローであれ剛速球であれ、「分かる」のだ。
しかし高畑さんは、「直球」みたいな「シレッ」とした顔をしていながら、
トンデモない「変化球」を投げて来る。
それも「始めは確かに直球に見える」癖に、
手元に来たらえげつない魔球を投げて来るのだ。

こんな作家他に居るだろうか。
宮崎駿は「天才」以外の何物でもないが、
この人、一見「凡人」なのだ!
本当にタチの悪い曲者だ、
「鬼才」とはこの人を言う、
鬼才は、実は天才を超えているのだ。

どう考えても「あの絵」が8年掛かって、
50億かいくらか掛かったなんて、誰が信じられるか?
「緻密」に程遠い、スカスカの「水墨画」のような!
そして、一体人はこの映画の「何処に」感動したのか?!
みんな「明確に言ってみろ!(笑)」

・・ストーリーか?
そんなもの、ハイジと変わらんじゃないか、
かぐや姫なんて誰でも知ってる、
まさしく別に特に変哲もない、
ほぼお伽話のままではないか。
その一体「何処に」感動したのだ!?

・・私は、「感動」なんてありきたりな表現をこの映画に当てたくない。
そんな生易しいものじゃない。

強烈だったのは、月のお迎えだ。
誰もが知る、そのシーンを、どう料理するのか、
と思う間もなく、遠く天空からやって来る音楽とお迎えの表現、

姫が去るまで、
そして去ってしまった後のなんと無碍なるエンディング!
打ちのめされた。
私は姫に去られた翁そのものだった。

自分に翻っておのれの俗さを思い知らされ言葉を失った、
私はなーんにも分かっておりません、すみませんでした、
謝った後で腹が立った。
こんな映画、アリか、

自分の至らなさで映画を作る気力が失せた。
こんな映画作れるか!
きっと宮崎駿も、観て怒ったと思う(笑)。

高畑さんは、「映画」なんかどうでもいいのだ、きっとそうだ。
宮崎駿は、まさしく「映画」、
それも「まんが映画」を作ることに心血を注いだ。
「映画」という「枠」を愛して愛して作る人だ。

高畑勲は違う。
「枠」なんてこの人には意味がない。
「映画」の「フリ」をしているだけだ。
アニメのフリをしているだけだ。

8年もの歳月を掛けて、徹底的に無駄を排し、
そこに描き出されたものは、
あの人物達の「表情」だ!
人が集中しない時には「ただの絵」でしかない「絵」が、
感情表現するとき、見たことがない程のリアルで豊かな表情をする、
それを尽く「描き尽くして」いる。

草木、自然、人の表情、
「ここぞ」で見せる集中は尋常では無い。
「アニメ」なんかではない。
「動く2時間の絵」だ。
「生きている」のだ!

姫が疾走するシーンの凄まじさは、
その心情表現と「絵のタッチ」がシンクロするという、
およそ自主映画的な、「個人作家」が取るかのような表現を、
営利企業の一般公開アニメの場で実現するという
「えげつないこと」を実現しているのだ。

そういう表現が映画全編に「気を抜くことなく」徹底されている。
私や、評論家然としたような、「知ったようなことを言う」愚か者の頭を叩き割る、
「見えない企み」は、見事に結実して「小理屈」を寄せ付けない。

宮崎氏の「それ」は、
天才ゆえの「突っ走るパワー」で「蹴散らす」のだが、
この人は「ちゃんと」理詰めで計算した上で「突き放す」。

スカスカの絵、「普通」の表現、それらを見せつつ、
とてつもない世界に連れて行く、
本当に恐るべきマエストロだ。

唯一「計算できぬ筈」は翁役の地井さんの芝居だ。
「声」だけなのに、そこに「生きている」素晴らしいとしか言いようのない演技、
それを引き出す演出、
どれを取っても恐るべきだ。

高畑さんはきっと、
「失敗の表現」も「上手くいった表現」も「技術」も知り尽くしている。
そんな「チャチな」水準で語る気なんて毛頭ないだろう。

映画館を出た時、
家族三人は、公開待ちの邦画、洋画群を前にして、

「・・どれも要らんのちゃうん・・」と同じ言葉を呟いたのだった。