「永遠に0円」ではなく「永遠の0」。こうも違うものか、「かぐや姫」よ。 | オッサン君の映画DEぼーん!

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映画に愛を!
ゴジラから2001年宇宙の旅まで。
古今東西、思う存分映画を語るもんねっ!
愛と怒りをこめて、カーツ1発!
(独断偏見ごめんくさい!!やな人はスルーのコトよ!)

はい、新年明けましておめでとうございます。
かつて元旦と言えば「正月料金」で、
映画は「興行」の世界、神社の出店同様、
特別料金でべらぼうに高かった。

でも今は逆で、
1日なんで「映画の日」、安いんだ。
隔世の感あり、ですな。まったく。

さあ、今年もつまんなそうな1年のラインナップ(泣)、
まずはCGのゼロ戦、さっそく観てまいりました。
・・ま、予告の岡田クン(岡田准一)の台詞聞いて、
「アカン」と思ったけど、

原作はいいって言うし、
予告見たら号泣してる客や、
試写会場でスタンディングオベーション起こってるし
(仕込みか!俺、引っ掛かってるんか!笑)
一応、一見しなくちゃ、と思って。

いやーここんとこ「風立ちぬ」「かぐや姫」「GRAVITY」と絶賛続き、
連発記録は3本でストップ。
さーボロクソ書くぞ(笑)。

まずねッ、脚本悪すぎ!
原作は知らんが、セリフ悪すぎ!
「言いそうな台詞」が読めてしまう。

CGは・・まあ、邦画としては「あんなもん」かも知れん、
かなり頑張ってるけど、ゲームっぽさは否めないクォリティ。
ただ、今の邦画全般に言えることだが、
仕込み(美術)は格段にレベルアップしてる。

でも台詞がとにかく安易。
ホンに工夫が「ゼロ」。
宮部少尉だっけ、
自主錬してる割に筋肉なさ杉、色男岡田クン。
あっこで「バレた。」
「気合」が入ってない。

あと、空中戦闘シーン。
演出の視点が「ヤマト」と同じだ。
ただの「バトルシーン」に過ぎない「娯楽映画」レベルだから、
「死」が見えてこない。

SFと同じコンセプトで、実際にあった、
それも「特攻隊」を描くのは余りにも姿勢がチャチだ。
特攻に行くというとてつもない神妙で絶望的で神聖で悲愴な心理が何一つ迫って来ない。

観ていて、「オレならこう撮る」ばっかり思っちゃうんだよね。
まず井上真央と夫婦ってのが「ウソ」。
ウソ丸出し。夫婦に見えない。
命を賭す人が、面会できる唯一の貴重な時間、
その再会、そんなシーンに台詞なんぞいらぬ。
また、箒で叩こうとするような下らん演出は余計である。

あと、岡田ゼロがいよいよ特攻で、死に行く最期のカット、
遥か雲の彼方に去るゼロ戦の画が半端。
画面左上方に向け、腹を見せて小さく消え行く画ヅラのようなダイナミズムが欲しい。

母艦が初めて攻撃を受けるシーン、
乗員一同の驚く顔は「ゴジラ映画」の演出だ。
戦闘下にあって、みんな揃って爆発見て驚く、はなかろう。
もっとカオス状態の阿鼻叫喚、各自必死に動くはずである。

また、原作がこういう構造なのかも知れないが、
いちいち現代のシーンに戻すのも消化不良。
平幹二郎って、こんなに下手くそだっけか?
あんなに巧い橋爪功までが下手に見える安い台詞、

唯一「さすが」だったのが田中泯。
「存在感のみ」で芝居をするものだから、
少々台詞が駄目でも平気(笑)。
空気出してた。

唯一、田中泯が告白する台詞の畳み掛けカットだけが良かったが、
いくらベテラン勢に助けられても
監督が分かってないんじゃ駄目だろうよ。

せっかく遺作になった夏八木勲に
「生き残った者はそれぞれの戦争の物語を持ってる」って言わせても、
監督、あんた、本当にそう思ってる?分かってる?

そも、これだけ資本投下された映画を連発、
メジャーの「仕事」を出来るあたりで
そんなこと思う人でないことは自明ではある。

つまり、戦争の真実やら
「あの戦争がなんだったか」を真摯に問うような人物は、
「仕事」として関わる「器用さ」を持てない。
今頃仕事に出来ずに悶々として挌闘している筈だ。

前提が既に「証明」してしまう。
そこを突き詰めて理解しようとすれば、
とても軽々しく「手を出せない」筈である。

現に、「反戦」的主題を全体に持ちながら、
ラスト、結局は主人公の「腕の立つ戦闘機乗り」であることは晴らされて
カタルシスに一役買い、ヒロイズムに終わる。

この論理矛盾は「娯楽」の名の下に煙に撒かれているが、
ここが百田氏という作家にまず不審を持った点であり、
私観に過ぎないがこの作家、やたらTVに出てよく喋る。
そういう人がこんな重厚なテーマを深く描くことなど出来るのだろうか、と思っていた。

やはりホンの中にもそんな「魂」が欠如しているから、
「お話」が白じんだ時点で伏線回収処理の不味さが浮き彫りになって、
「作り話」は「作り話でしかない」空虚さに帰結する。

エンディングのサザンの曲に至っては、
タイアップか何か知らんが、
映画の空虚さをフォロー出来ずに余計に品位を貶めた感がある。

画面の中が泣けば観客も泣くだろうという誤解なのか、
安易なラスト近くのゼロの幻を孫が現代に見るカットも、
いかにもCG畑でやってきた監督の、
「ビジュアル」重視の奢り、と見る。
蛇足である。

何故宮部の未亡人を戦友が見初めるシークエンスを、ベッドシーンにせぬのか。

映画は、「映像で見せる」のではない。
映像の向こう側を「想像させる」のだ。

私の目は、乾いて「カスカス」であった、
この「かぐや姫」との歴然とした差は、
才能のせいなのか、
作家性のせいなのか、

いずれにしても売れっ子の監督と作家共々、
「かぐや姫」の爪の垢を
・・月に取りに行って下さい。

中国に頼んで。