日テレドラマと「0」。「子供の力」と「特攻隊」、そして「表現」と「作家性」について。その1。 | オッサン君の映画DEぼーん!

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日テレのドラマに対する批判が、
「批判」の域を超えて来た。

個人的に、TVドラマにほぼ興味が失せているので積極的に見ようとは思わなかったが、
「一応」数十分程だが、見てみた。

まあ、さすがにこれだけで批判や批評が出来るとは思っていないが、
ただ、ヒットした「ミタ」は
我慢して数回見て嫌気がさしてギブアップ、
悪いが評価出来るものではなかった。
「半沢」については一見の価値はあるのかなと思っている。

今回のドラマも「おおよそ」想像が付いてはいたが、
抗議のニュースや批判、一般の意見を読めば、
その内容はほぼ想像通りの様子ではある。

しかも知らなかったのだが、
野島伸司氏が企画に噛んでいるらしい。
はっきり言って人気絶頂当時から好きではない。

内容、様々な団体からの批判、抗議はさておき、
私見を述べれば、そもそもこう思う。

その批判の一つ、
「ポスト」という子供の劇中の仇名についてだが、
この「エグイ」名がまず槍玉に挙がっている理由は、
当然「当事者」に対する「配慮」の欠如を指摘されてのことであるが、

心情的なこと配慮の問題も横に置いて見れば、
ある意味リアリティが無いとも言えない。
子供の残酷さは時にそういう「エグさ」を持つことは実際あるだろう。

問題は、そもそも「その名を巡って」の「葛藤(ドラマ)」
があって然るべきで、
それが劇中で描かれていたのか否か、
そこにもあるのだと思う。

例えば子供同志が、
そう呼び合うことで相手を実は傷付けていることに考え及び、
人の痛み、思いやりに気付く、
そういう「成長」を描いてこそ
「存在価値のあるTVドラマ」足りうるのではないだろうか。

つまり、そういう「気の利いた」表現を踏むことに
「表現」としての「TVドラマ」の存在意義があるのであって、
昨今の風潮であるところの

「視聴率」に向けて(スポンサーに向けて)の
「ビジネス商品」として「機能」することが
TVドラマの存在意義であるというのなら、
その「表現」とは「売れる」という命題のもとには
「何をやってもアリ」というに等しく、
実際にそういう帰結を見るからこそ
BPOなどの「歯止め」がシステム化されて在るのだ。

その点に於いて、
かつてより氏の表現方法論には個人的に異議があり、
かつてのドラマ作法でも
常にそういった「本質的な葛藤」が作中に提示されることはなく、

劇中に撒き散らした
「劇中の人物自身が持つ葛藤」
ではなく、あくまで
「作者が登場人物に張り付けた作為としての葛藤」
は、ついに最後まで「回収」されることはなく終了する。
常にそういった作法であったように記憶する。

誤解なきように付け加えるが、
「表現」とは時にそれほど「過激」であってよいのである。
(何もステロタイプな成長物語がいい、などと言っているのではない。)
その時に重要になって来るのが
「作家の覚悟」である。
それこそが「作家性」というものである。

それほどまでに「表現の衝動に駆られて」表現して、
その結果、仮に「誰かが傷ついた」としても、
それは作家本人が覚悟の下に「回収」するのである。

その点、今回のドラマに於いては、
幾多の抗議は恐らく的を射ていると考える。
何故なら「センセーショナル」という「切り口」は、
常に「問題」と紙一重である。

その時に重要になるのが先述の「覚悟」の有無だ。
唐突に「風立ちぬ」を例に取るが、
同作の場合も禁煙団体や反戦団体の抗議を受けた。

しかし、日テレドラマと違っているのは「実害」が無いだけでなく、
そこには「確固たる」作者の「思い」、
つまり「作家性」が核として存在感を持っていたことだ。

本ドラマでは実際に、
既に子供が傷付けられたという
「実害」があるというのであれば何をかいわんやであろう。

制作側が「子供達の生き抜く力を描く」と
善意を強調すること自体、偽善、欺瞞でしかなく、
本当に「表現者」として
「確固」とした作家性のもとに「世間に喧嘩を売る」のなら、
それはそれで「そういう表現」を貫いて
「ヒール」を演じてもよいのである。

しかしながら、「現実に苦しむ」者を
より苦しめるような実害を生んでおいて
「力を描く、子供を応援している」、
などという欺瞞を表明し

かつ視聴者に「信じさせる」だけの
「説得力」、つまりは「作家性のオーラ」
のようなエネルギー自体が見えなかった、
という所に「結論」は出ている気がする。

大体、ドラマ中で「イジメ」を描く前に
ドラマ自体がイジメを助長しては本末転倒の
お笑いではないか。

当事者や関係団体の抗議以前の最大の問題は、
「そこで描こうとしたテーマ」に対する
制作者側の「作家性」が「姿勢」という形で
顕れたことにあるのではないだろうか。

「魂」の「欠如」が白日の下に晒されてしまったことに
問題があるのではないだろうか。