それからしばらく、父は小康状態を保っていた。日がなうとうとと病院のベッドの上で過ごし、声をかけられれば反応を返し会話もできるけれど、常に何処かぼんやりとした表情を浮かべていた。
「家に帰るか、施設を探すかだな」
兄はその話題を何度も出すが、いつまでたっても結論は出ない。兄嫁は黙って座っているが、本当は介護などしたくないのだろう。家に帰るかのような話に傾き始めると、隣にいる兄に無言のプレッシャーをかけているのを感じる。
「今日はお袋を家に送って行ってくれないか。俺たち、この後用事があって」
そう兄が言うので、母を助手席に座らせて車を出した。
「お母さんは、どうしたいの」
母は落ち着かないようにその小さな体を座席にうずめながらもごもごと口を動かした。
「そりゃ、お父さんを施設に入れるだなんてね、私は嫌よ。けれど明子さんがねえ」
明子、というのは兄嫁の名前だ。
「ねえ、美代。あんた家に帰ってこない?」
「は?」
思わずハンドルを強く握りしめる。
「なによ、それ」
「だって結局結婚もしないで50近いでしょ。じゃあもう帰って来たっていいじゃない。嫁って言ったって結局他人でしょ。お父さんだってあんたに世話してもらいたいと思うわよ」
「そんな簡単に言わないでよ。私だって仕事があるのよ」
「親の世話もできないくらい重要な仕事なの、あんたの仕事は」
赤信号にかかったのをいいことに乱暴にブレーキを踏む。母の瘦せた身体にシートベルトが食い込むのを見て少し反省すると同時に、乱暴な気持ちも生まれる。ザマアミロ。
「そんな簡単に辞めるだなんだなんてできないんだよ。お母さんは外で働いたことがないから分からないかもしれないけれど」
母は憂鬱そうに溜息をついた。
「冷たい娘だよ、あんたは」
週末に病室に向かうと、まだ母も兄夫婦も来ていなかった。
「お父さん、来たよ」
そう声をかけると父はうっすらと目を開けた。父は段々と弱ってきており、もう会話を交わすことは無くなってきていた。それでも時折笑うようなそぶりを見せたりするものだから、まだ父の命を諦めきれずにいるのだ。
父はもともと笑わない人だった。そもそも仕事人間で家にほとんどいない人だったので、どんな表情もそれほど多くは見たことがないのだけれど。もしかしたら父が倒れてからのほうが、今までの人生に比べて多く言葉を交わしているかもしれない。
「お父さん、お父さんは家に帰りたい?」
そう問いかけてみても明確な答えなど帰ってこない。喉の奥で呻くような音を発するだけ。
「あら、美代。来てたの」
病室に母が入ってきた。
「あら、花が置いてあるじゃない。誰かが持ってきてくれたのかしら」
机の上に置いてある切り花を見つけてそれを手に取る。
「活けるのにいい瓶はないかしらねえ」
「そんなことより、先にお父さんに声かけたらどう?」
思わず苛ついた声をあげてしまう。母はちらっと父を見やって再び花に視線を戻した。
「そんなこと言ったって、お父さん寝てるじゃない」
確かに父は再び目を閉じてしまっていた。
「それでも、」
「ああ、はいはい。でもこっちだって早くしないと悪くなるでしょ。もうこれでいいかしらね、だいぶ枯れてきたし」
そういいながら母は以前活けた薄ピンクの花を花瓶から取り出した。
熱心に花を活ける姿は家でもよく見ていた。母は庭仕事が好きで、よく庭の花をとってきては家中に飾っていたから。それを褒める父は見たことがないけれど。そもそも父は母が家の中ですることにちゃんと気が付いていたのだろうか。私は両親の夫婦仲睦まじく、などという姿は見たことがない。そんな家庭で育ったから結婚できないのだ、なんて都合の良すぎる言い訳だけれど。
「ほらねえ、お母さんが飾ってる花、きれいだね」
そっと父に声をかけると、父はまた目を開けてうっすらと笑った。
まるで親子ごっこをしているみたいだ、と少し可笑しくなった。
父はそのまま病院で死んだ。兄はこちらが恥ずかしくなるくらい病室でわんわんと泣いて、かくいう私もやはり涙は出てきたのだが、母はやはりぼんやりとした表情でぽつねんと座っていた。
葬儀の日実家まで迎えに行くと、喪服を着た母がハサミを片手に庭に立っていた。
「何してるの。もう出発するわよ」
そう声をかけると、母は私のほうを見ずに答えた。
「薔薇が奇麗に咲いたでしょう」
母の視線を辿ると、確かに真紅の薔薇が蕾を開いていた。
「これ、お父さんの棺桶の中に入れようと思って」
私は思わずまじまじと母の横顔を見つめた。
「そうね。そうしようか」
母の手からハサミを借りて、彼女の背丈では届かないところに咲く、一番大きなそれを切り取る。いつの間に、こんなに小さくなってしまったのだろう。
それから母の指定した薔薇を幾輪か摘み取って車に戻る。車の中を、甘ったるい薔薇の香りが満たした。
「それでは故人の周りに花をお納めください」
その言葉で参列者たちが白い花を棺桶につめていく。その姿を見て、不謹慎ながら笑ってしまいそうになる。どんな人生を送って来たって、棺桶の中に入れば周りに似合いもしない花を飾られる運命なのか。
「ほら、お母さん、薔薇いれたらどう?」
そう促すと母は曖昧に頷いて、手に持ったそれを一つ一つ父の周りに置いた。奇麗ですね、奥さんが育てたんですか。そういった周りの声も聞こえぬように母は無表情でそれを置いてゆく。ゆっくりと丁寧に扱われているのは、母の大好きな薔薇か、それとも碌に会話も交わさなかった長年連れ添った夫か。
白い花たちの中でひと際目を引く真紅の薔薇の色を、私は当分忘れられそうにない。
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