<わかりやすい解説動画>
■徳川家康説は、状況証拠が多いという程度に留まるが、
天海僧正(南光坊)=光秀説により、興味をひかれる内容となっている。
首謀というより、変に賛同、支援ないし、
事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったというもの。
これも歴史小説ではよく触れられる。
■また家康が何らかの形で信長による自身の暗殺計画を知り
逆に計略を立て光秀を利用し信長を暗殺したという説もある。
変の直前の天正10年5月15日
家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の
随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となった。
ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、
『太閤記』にあるような「魚が腐っていた」と
いったような表の理由ではなく、
実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう
光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、
信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説もある。
■裏づけとする史書の記述として、
フロイスの「日本史」が続いて、光秀の京都への反転に際して
「兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きが
いったい何のためであるか訝り始め、
おそらく明智は信長の命に基づいて、
その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。」
■織田と徳川は後世に美化されたような「同盟」
という対等の関係でなく、従属的なものであった。
徳川は織田にとって、対今川・対武田の押さえであり、
その両者が滅亡した段階
(武田家の滅亡は本能寺の変の直前である)において、
東方平定のためにはむしろ邪魔になっており、
早々に完全に織田家の家臣化させるか滅ぼされるべき存在であった。
■信長の敵対者である伊賀忍者に守られた逃避行は、
後世、光秀方に誅されることを恐れたものとされるが、
本来は信長方に誅されることを恐れて事前に準備されたものだった、
ないし、自己の関与を否定するための演出であった。
Wikipedia
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