出張中に読んだ「動乱の東国史」6巻7巻はどちらも面白かったのですが、どちらかを選べと言われたら、地元の英雄・太田資正(三楽斎)が登場する7巻『東国の戦国争乱と織豊権力』を取ります。

著者の池亨氏自身が、三楽斎に魅せられたと認めるだけあって、北条五代や上杉謙信、武田信玄らの大物に比べると明らかに小さな存在である太田三楽斎の動きを、通史の随所で追ってくれています。数奇に満ちた三楽斎の生涯をこれだけ描いている通史は無いのではないでしょうか。

三楽斎好き必読の一冊と言えます。

以下、覚え書きとして。

1486年 扇谷上杉氏(定正)、家宰の太田道灌を暗殺。
・三楽斎の曽祖父・道灌の最後の言葉は「当方滅亡」。
・やがてその言葉通り、扇谷上杉家は、新勢力・後北条氏に滅ぼされます。

1498年 扇谷上杉氏、伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟。
・やがて両上杉氏家(山内上杉氏、扇谷上杉氏)を滅ぼす新勢力・後北条氏。
・その新勢力と扇谷上杉氏が結んだのは、山内上杉氏との抗争のためだった、というのは皮肉です。

1524年 北条氏綱、江戸太田家(資高)と結び多摩川を越える。

・扇谷上杉氏の家宰である太田氏が、やがて主家を滅ぼす後北条氏と結ぶのも皮肉ですね。

1538年 第一国府台合戦
・古河公方(足利晴氏)が北条氏綱の力を借りて、小弓公方を滅ぼす。
・これにより、新興勢力だった後北条氏が「関東管領」の地位を獲得。名門・両上杉家を越える権威を手にしたことで、歴史が大きく回り始めます。

1546年 北条氏康、河越合戦で両上杉氏を滅ぼす
・犬猿の仲になっていた山内上杉家、扇谷上杉家が、「関東管領」を“僭称”する北条憎しで再同盟。北条家の氏綱→氏康の代替わりを狙って大勝負に出るも大敗。関東管領・上杉家の栄華は、ここに終わります。
・太田資正三楽斎は、この年から歴史上に姿を現します。岩付太田家の当主であった兄の資時が、河越合戦にあって北条側と結んだのに対し、資正はあくまでも上杉側に付き、敗れました。
・歴史デビューが負け戦というのが三楽斎らしいところです。

1547年 太田資時死去、資正が岩付城に入る
・当主である兄・資時の死と同時に、資正は強引に岩付城に入って、岩付太田氏の当主に。
・北条方に寝返った松山城も奪い、岩付太田家の領土を拡大。反北条の旗を掲げるも、北条氏康に岩付城を攻められ、講和。立ったと思ったら直ぐに抑えつけられた三楽斎。臥薪嘗胆の始まりです。

1556年 太田資正、北条氏康の命で海老島合戦に参加
・南常陸の結城氏が、地域の勢力争いで北条氏康に援軍を頼む。
・太田資正は、氏康に命じられて結城氏を応援し、合戦を勝利に導く。

1559年 太田資正、北条氏の「他国衆」
・同年に作成された「北条氏家臣知行役帳」に、太田資正の名は北条側の「他国衆」として記されています。
・北条配下となって12年間。臥薪嘗胆は続きます。

1560年 上杉謙信、越山し関東を攻める、太田資正、謙信に付く
・河越合戦で滅びた上杉家が、越後の長尾景虎に家督を譲り、以降「上杉政虎」となった景虎が関東に攻め込みます。
・これに応じて、太田資正は再び反北条の旗を掲げ、謙信方に付きます。
・上杉家の家宰としての太田家の働きどころ、と資正が思ったかどうか。それはわかりませんが、謙信の手紙には謙信が資正を頼りにしたことが書かれており、両者が互いを認め合った関係だったことは間違いなさそうです。

1561年 上杉謙信、小田原城を攻める
・太田資正もこの小田原攻めに参加しています。
・関東を縦横無尽に駆け抜けた上杉謙信でも落とせなかった小田原城の難攻不落に、資正は何を思ったか。

1561年 太田資正、松山城を落とす
・小田原攻めと同じ年、資正は、14年前に一時落としたもののすぐに北条氏に奪還された松山城を再度落とし、版図に入れます。
・これから2年間、北条氏康方の奪還攻勢を何度も弾き返したことが、資正の名を高めたと言います。軍用犬を使ったのもこの頃のエピソードのようです。

1563年、北条氏康、松山城を再奪還
・資正の“天下”は中々続きません。
・資正から松山城の救援依頼を受けた上杉謙信は、再び関東に現れますが、松山城落城に間に合いませんでした。

1564年 第二次国府台合戦
・反北条で連携していた上総の里見氏が、松山城救援のため下総市川まで来たところで、太田資正や江戸太田氏(資康)と合流。江戸攻めを行う動きを見せたそうです。北武蔵の敵(かたき)を南武蔵で取る、ということだったのかもしれません。
・これを北条氏康・氏政が、迎え撃ち、激戦となったものの、最終的に大勝。太田資正は、手痛い二連敗を被ります。いや、敗北は二度では済みませんでした。

1564年 太田資正、息子に岩付城を追われる
・第二次国府台合戦に敗れ、岩付城に何とか戻った資正を待っていたのは、息子・氏資の反乱。
・もはや武蔵の国にあって、反北条を貫くのは無理と悟った氏資は、父・資正を城には入れず、追放します。
・氏資は、資正が北条に屈していた12年間の間に、北条氏の嫁をもらっています。反北条を貫こうとする父とは、もっと以前からすれ違いがあったに違いありません。
・しかし、居城を追われた資正は、反北条を続ける宇都宮氏・佐竹氏の客将となり、反北条の戦いを続けることになります。(佐竹氏の下で筑波付近の北条方勢力と戦う時期が長かったそうです)

1567年 上総三船山合戦にて太田氏資、討死
・父を追放し、北条方についた太田氏資は、北条氏政に従って里見を攻めますが、大敗。
・北条氏政は、太田氏資に殿を命じ、氏資はたった53騎で殿を務めて全滅したそうです。
・氏資に従ったのがたった53騎だったのは、父親を追放したことで家臣団がバラバラになったためだったのでしょうか?
・父を裏切ってまで北条に付いた氏資に対して、殿を命じた氏政には、冷酷なものを感じます。氏政はこの後、太田氏の消え去った岩付城を、北条氏直轄の城にしています。狙った部分があったのではないでしょうか。
・息子の討死を聞いて、そして岩付城の北条氏直轄化を聞いて、太田資正は、何を思ったか。

1568年 越相同盟の成立
・関東の覇権をめぐって争っていた上杉謙信(越州)と北条氏政(相州)が、武田信玄の関東攻めに対応するため同盟を模索します。
・この際、同盟の条件として北条氏が直轄支配していた岩付城を太田資正(三楽斎)に戻すべし、という条件を上杉謙信が突きつけ、北条方も飲んだと言います。
・しかし、実際には細部の条件が詰まらず、この約束は反故となります。
・それれも、こうした交渉で上杉方があえて三楽斎の城と領土を条件に出してくる部分は、興味深いと思います。

1578年 太田三楽斎、小河原合戦に参戦
・北条の下野に対する浸食を嫌った佐竹氏・結城氏・那須氏・宇都宮氏が団結し、北条勢を押し返した合戦。
・太田三楽斎もここに参加しています。
・さして土地も配下も持たない三楽斎の参戦があえて記録に残されている裏には、この反北条の団結の裏に、三楽斎の活躍があったように思えてなりません。
・すでに上杉謙信の越山・関東入りが、北条氏にとってさしたる脅威ではなくなってしまった中で、この反北条同盟が成立したことは、北関東の武将たちに大きな自信を与えたそうです。

1579年 武田勝頼、太田三楽斎を介して佐竹氏・結城氏・那須氏・宇都宮氏と同盟
・長篠の合戦から勢力を戻しつつあった武田勝頼が、佐竹氏ら反北条の北関東勢と同盟。その仲介を太田三楽斎が行ったと言います。さして土地も配下も持たない三楽斎になぜそれができたのかはわかりません。三楽斎の不思議なところです。
・これ以降、武田勝頼による怒涛の北条攻めが始まります。
・武田勝頼から陸路上野を攻められ、水軍で長浜を攻められた北条氏政は、織田信長に関八州を織田分国にするから、と助けを求める程に追いつめられます。
・国を持たない策士・三楽斎の仕掛けが、北条氏を追い詰めた・・・そう思いたくなる場面です。

1582年 武田氏滅亡
・しかし、北条を追い詰めることに力を咲き過ぎた武田勝頼は、織田・徳川勢に攻められ、あえなく滅びてしまいます。
・背後の織田・徳川の脅威を忘れて、北条攻めにのめり込んだ武田勝頼は愚かです。しかし、勝頼をしてそうさせたのは、三楽斎の策だったのではないか、という気がしてなりません。

1582年 太田三楽斎、織田信長に直参を申し出る
・驚くのは、武田家が滅びた後、太田三楽斎が織田信長に対してただちに直参として出仕したい、と申し出ていることです。
・勝頼は捨て駒だったのか、と思わずにいられなくなります。もちろん、次々に関東外の強者に靡いただけ、とみることもできますが。
・しかし、一寸先は闇です。その信長も、この年、本能寺の変に倒れます。

1583年 反北条勢、豊臣秀吉に書状を送る
・本能寺の変後、反北条勢は徳川家康を頼りますが、家康はむしろ北条との同盟を望んだため、失望した北関東の反北条勢は秀吉に書状を送ったと言います。
・北関東の反北条勢は、同年の沼尻合戦で徳川と結ぶ北条勢を北関東に足止めし、小牧・長久手における秀吉の対家康勝利を助けた、という見方が近年の史学界にはあるそうです。
・ただの妄想ですが、この壮大な仕掛けの裏には、三楽斎がいたような気がしてしまいます。

1590年 豊臣秀吉、北条攻め
・豊臣秀吉によるかの有名な北条攻め。
・秀吉の下には、関東や東北の武将たちがこぞって集まり、謁見しました。
・太田資正三楽斎もその中にいました。秀吉は、三楽斎に会った後、「三楽斎ほどの者が一国も取れぬ不思議よ」と語ったと言います。
・三楽斎は、人生をかけて戦った巨大な敵・北条氏が、秀吉率いる上方勢の前に、まるで喜劇のように滅ぼされていく様を、どう思いながら見たのか。
・三楽斎は、居城・岩付城への帰還を願い出たと言いますが、秀吉はそれを受け入れませんでした。

1591年 太田資正三楽斎、死す
・生涯の敵・北条が滅び、帰還することを熱望した岩付城に戻れぬことが分かった翌年、三楽斎はこの世を去っています。まさに北条との戦いにかけた人生だったと言えます。
・己の手で倒したとは言えぬ結末に、何を思ったのか。帰りたいと思った城に戻れなかった結末をどう捉えたか。本当のところはわかりませんが、私には、少し悔しさと虚しさを感じつつも、執念から解放され、戦いに抜いた己を苦笑しつつねぎらう老・三楽斎の姿が浮かんでいます。

※ 追記
太田資正の生涯を追う「太田資正のこと」シリーズ、始めました。

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