豊臣秀吉による“北条征伐”の際、当時北条氏の支城だった岩付城(岩槻城)は、北の新正寺曲輪から攻め落とされたと言います。

この新正寺曲輪攻めには、伝説が残されています。
それは、豊臣・徳川連合の数万の大軍が、新正寺曲輪の北の荒川までたどり着いたもののこれを渡河できずに難儀していた時に、濁流を渡る神様(八幡様)の姿を目撃した、というもの。

荒川北岸にあった八幡神社の神様が、新正寺曲輪の久伊豆神社の大明神に、豊臣・徳川勢の集結を伝えるために荒川を渡ったところだったとか。それを見た豊臣・徳川勢は、川の浅い場所を知り、一気に渡河し、新正寺曲輪を攻め落とした、と伝説は伝えます。

八幡様の心遣いが裏目に出てしまい、以来、久伊豆大明神と八幡様は仲が悪くなった、そんなちょっと不思議な昔話です。

今日は、夕方には雨もあがったので、以前から行きたいと思っていたこの伝説の主役の八幡神社(地元では鎧宮と呼ばれるそうです)を訪ねてみました。



出発地点は、新正寺曲輪の久伊豆神社の鳥居前。
久伊豆神社の鳥居前から南を望んだ先には、かつては三の丸がありました。今は交差点があるだけですが。
交差点の更に遠くに見えるのは、三の丸の更に南にある新曲輪の森です。
この三の丸に向かう道路は、下り坂→上り坂となっています。この低地部は、かつては広大な沼であり、城の濠の役割を果たしていました。


久伊豆神社の鳥居から参道を望む。
この長い参道は、歩くと身が清められるような気持ちになります。お気に入りの場所の一つです。


久伊豆神社の乗る丘(新正寺曲輪)の北側の池。昔の濠の跡だったようにも思えます。


久伊豆神社の丘を眺めながら(写真は北から南を眺めたもの)、北へ。
この鬱蒼とした森には、かつての城の北の守りだった新正寺曲輪の威厳を感じます。



北の道路を越えると、元荒川の昔の川筋だったと考えられる「調整池」にぶつかります。


調整池により近づくとこんな感じです。


この調整池を反時計回りにぐるりと回って池の北に来ると、八幡神社に辿り着きます。八幡神社は、南の調整池と北の元荒川に挟まれた場所に鎮座していました。


岩付城を攻める豊臣・徳川連合軍がこの神社に陣を置いたのは史実らしく、地元では「鎧宮」と呼ばれているとか。八幡様の伝説にも根拠があるんですね。
荒川を渡った神様とは、八幡神社の宮司だったのかもしれません。そして、久伊豆神社の宮司に、豊臣・徳川勢の様子を伝えるために、荒川の浅瀬を渡ったところを見られてしまったーーーと。
岩付城(岩槻城)の攻防を伝える「北条記」という資料にも、豊臣・徳川勢が堀の浅いところを通って城に攻め寄せたとの記述があり、この伝説には、相当に史実の裏付けがあると感じずにはいられません。

さて、この八幡様、最初は探しても見つかりませんでした。伝説が頭にあったため、八幡神社は元荒川の北側と思い込んでいたのです。
しかし、いく、元荒川の北をさ迷っても、それらしい八幡神社にはぶつからず、かなり離れた場所の慈恩寺付近の八幡様がそれだとしばらく勘違いしていました。

実際の場所は、上で触れた通り、元荒川の南岸。そして調整池の北岸です。
どうやら、元荒川の川筋が同時と今では異なるようです。古い岩付城の地図を見ると、元荒川の流れは今日より遥かに蛇行しています。おそらく、今日の調整池が川の本流だったのでしょう。



八幡神社の境内に入り、鎧を着けた数千数万の武者達が、ここや周囲の野原に犇めいていた日のことを想像してみました。
後世「鎧宮」と呼ばれたことから、察するに荒々しく物々しい雰囲気が、当時はこの地を包んでいたのでしょう。

全く感覚的なものですが、この神社の境内には、城攻めを控えて殺気走る武者達を近くに感じさせる何かがありました。

境内には、案内板も何も残されていませんでしたが、確かにここは歴史の舞台だったに違いないと感じました。

【参考】
地図で見る太田資正の世界 (7)岩付城(岩槻城)とその地形