岩付城(岩槻城)城主・太田資正と、小田原北条氏の当主・北条氏政の間で行われた戦として伝わる「加倉畷(かくらなわて)の戦い」。岩槻のみで語り継がれ、他の資料には現れないこの幻の合戦について、現地(さいたま市岩槻区加倉付近)を歩きながら考察しました。

(1)加倉口とその先の丘

城を城下町ごとぐるりと囲む土塁と空堀を大構(おおがまえ。総構、惣構、あるいは総曲輪とも)と言います。

後北条氏がこれを居城・小田原城に導入し、難攻不落を誇ったことは有名です。
豊臣秀吉の大坂城を難攻不落足らしめた惣堀も、小田原城の大構にヒントを得て造られたと言われています。

岩付城(岩槻城)にも、この大構がありました。後北条氏は、岩付太田氏からこの城を奪うと、武蔵国支配の重要拠点とします。その後、秀吉の北条征伐に対抗するため、小田原城と同じ大構をこの城にも導入したのです。

城下町も含めた“大”岩付城の内側と外側の境界線となる大構。この大構と江戸から東北に向かう街道と交わる場所は昔から「加倉(かくら)」と呼ばれています。
後世、徳川家康が関東に入封した際、岩付を与えられた譜代大名は、家康が鷹狩りで岩付を訪れる際には、この加倉に作られた出入口「加倉口(かくらぐち)」まで出迎えに来たとか。
まさに、城下町を含めた“大”岩付城の表玄関と言える場所です。

今日、加倉口の跡は交差点(児童センター入口)になっています。土塁も空堀も残っていませんが、この地で道路が大きく沈み込んでおり、かつて大構が利用したであろう自然の地形はそのまま残されています。想像力(妄想力?)を巡らせれば、大構の姿を思い浮かべることも可能です。


(大構の内側から加倉口跡を望む。
信号の先で道路が下り道になって見えなくなっている辺りが加倉口です)

さて、城の表玄関である加倉口ですが、江戸からこの加倉口にたどり着くには、そのすぐ手前に丘(台地)があり、これを越えねばなりません。
この丘(名前は特に無いようなので、ひとまず、“加倉口先の丘”と呼ぶことにします)は南北に細長く続いており、まるで城壁のような構造をしています。この加倉口先の丘を登って江戸側(岩付城の反対側)に下りたところには低地の湿地帯となっており、今日も水田が広がっています。綾瀬川も南北に流れ、細い川ながら一種の堀の役割を果たしています。

(加倉口跡の交差点から、加倉口先の丘を望む)

岩付城を江戸方面から繰る敵から守るには、加倉口で敵を待ち構えるよりも、この加倉先の丘で迎撃した方が有利ではないか。加倉口の場所を認識して以降、そんな疑問が浮かんでいます。
加倉口先の丘は、加倉口の土塁より高く、その先の綾瀬川は加倉口の空堀よりも越えにくいものだったと思えるからです。

もちろん、大構の境界線を加倉先の丘にしようとすると、囲む面積があまりに広くなり、大構としての機能を果たさなくなることは分かります。
しかし、一種の前線基地として加倉口先の丘と綾瀬川を使わないのは損です。


(加倉口先の丘を西の湿地帯側から見上げる。
写真が下手な私には、丘の高さをうまく映すことができません。
ちなみに丘の上を走るのは東北自動車道。右奥はラブホテル群の一端。)

こちらのブログの方のアイデアをお借りして、国立公文書館デジタルアーカイブから、江戸時代の加倉付近の絵図を持ってきました。この絵図の中で「馬坂」という坂のある樹木生い茂る細長い丘が、私が加倉口先の丘と呼んでいる台地です)

加倉馬坂

加倉口先の丘と綾瀬川が、岩付城防衛の前線基地として使われたことはなかったのか?
それが、以前からの疑問でした。

しかし、岩付太田氏に関する資料を見ても、後北条氏支配時代の資料を見ても、加倉口先の丘が登場する合戦に出会いません。

ところが灯台下暗し、小難しい歴史書籍ではなく、一番お手軽手に入る市の観光用の散策マップの中に、この場所が合戦の舞台として登場していることに、先日気づきました。
「加倉畷(かくらなわて)の合戦」です。


(2)加倉畷(かくらなわて)の合戦

散策マップには、加倉畷の合戦とは、北条氏政が、当時まだ岩付城にいた太田資正を攻めた戦であることが紹介されています。最後には資正側が加倉口先の丘の傾斜を利用した反撃で氏政を撃退したとか。

畷(なわて)とは、田んぼなどの湿地の中を通る一本道のこと。加倉口先の丘の西側は低地湿地帯ですので、ここから加倉口に繋がる一本道を畷と呼ぶのは合点が行きます。今日の県道2号線(旧国道16号線)の前身の街道が、「加倉畷」と呼ばれたのでしょう。

さて、北条氏政が軍勢を率いた時代で、太田資正が北条氏と戦火を交えた頃、しかも資正かまだ岩付城主だった時とすれば、それは永禄三年から七年になります。
永禄二年までの資正は、北条氏に対して明確に反旗を翻していません(それより以前の天文年間にも資正は北条氏に楯突いていますが、この時は肝心の氏政がまだ十二歳の子どもです)。また、永禄七年には、息子に裏切られ、資正は岩付城を追われています。

しかし、散策マップで紹介されているこの加倉畷の合戦、何故か岩付太田氏に関する詳しい解説書(例えば黒田基樹編「岩付太田氏」 )には登場しません。

その不思議は、図書館で見つけた「岩槻市地歴豆辞典」(昭和55年)を読むことで、解消しました。

加倉畷の合戦を今日に伝えるのは、「岩槻巷談」という遥か後世に書かれた書物のみなのです。同時代の資料からは、この合戦のことは一切確認できず、しかも、「岩槻巷談」には史実に合わぬ不整合が多いのだとか。
加倉畷の合戦についても、「巷談」は永禄十二年のことと記しているのだそうです。

永禄十二年と言えば、資正は既に常陸国の片野に移り、「片野の三楽」と呼ばれている時代。当然、岩付城にはいません。
岩付城に居たのは、永禄七年に資正を城から追放した息子・氏資のそのまた養子。この養子は名前が伝わっていませんが、北条一族の者だったことは間違いなく、小田原側との合戦など起こすはずがありません。

この手の致命的なミスが多く存在するため、「巷談」は研究者からはまともな資料としては扱われていない模様です。

市内の見せ場を増やしたい散策マップとしては、巷談が記す加倉畷の合戦を紹介したものの、研究者が書く岩付太田氏の歴史書には同合戦は登場しない。

どうやら、そういうことのようです。


(3)加倉畷の合戦は無かったのか

では、岩槻巷談のみが伝える加倉畷の合戦は無かったのでしょうか?

「岩槻市地歴豆辞典」は、永禄七年以前のことだろう、として否定はしない立場です。地元の史書を尊重する、ということなのかもしれません。

私も、あった可能性はあるのではないか、と思っています。というのも、巷談が伝える合戦の様子があまりに現地の地理条件に一致し、生き生きとしているからです。

「岩槻市地歴豆辞典」が現代語にまとめた「岩槻巷談」の記述は、以下の通りです。

「岩付勢は、竹内伊織に屈強の侍五十人を付けて、宮ノ下村の林の中に伏兵としておき、小田原勢が近づくと矢を射かけ簀子橋の縄手へ駆ぬけ加倉村へ退いた。これを見た小田原勢は金子六郎を真先に追跡し、加倉村へと押し寄せて来た。
加倉村に待機していた岩付勢は、伊達与兵衛・関根隼人の指揮により、台地上から矢を雨の如く射て、小田原勢の第一陣を粉砕した。小田原勢は態勢を整え、二陣の新手をくり出し、両軍互に入り乱れ馬煙は天を霞めるほどであった。
岩付勢は戦労れ坂の上まで引揚げたとき、岩付方の関根新八郎は、敵中に馳入りて三騎を切落し、その後長さ一丈、回り七寸の鉄棒にて、人馬を薙たおす大奮戦をした。しかし、日も暮れて来たので、小田原勢は宮ノ下に野陣を張り、翌日小田原へ帰陣した。」

矢を射かける場面、坂の上に立って登ってくる小田原勢を薙ぎ倒す場面、その両方が、加倉口先の丘を思い浮かべると、実にしっくりきます。

もちろん、後世の偽書の方が、臨場感たっぷりに嘘の戦いぶりを描くことも多々あるため、この臨場感から合戦の有無を見極めることはできません。

私が注目するのは、もうひとつの臨場感は、合戦の小規模ぶりです。

地歴豆辞典の記述を信じる限り、加倉畷の合戦は、せいぜい百騎前後の軍勢同士の戦いです。とてもではありませんが、万で数える軍勢を率いることができた小田原北条氏の当主の戦ではありません。
しかも、戦況の記述において、資正も、氏政も、登場しないのです。

後世の好事家が、資正対氏康の直接対決を創作したならば、もう少し大将格の人物が出てくる物語を描きたくなるはずです。

この点から私は、「岩槻巷談」が記す加倉畷の合戦を“あった”ことだと信じてみたくなるのです。資正対氏政の大将同士の合戦ではなく、双方に属する家臣や地侍達の小競り合いを描いたものとして。

地元で語り継がれた、北条方の地侍達を撃退した先祖達の武勇伝。それが、資正や氏政といった歴史上の大物達の合戦として少々虚偽申告して語られ、文書として残ったのが、岩槻巷談における加倉畷の合戦だったと考えるのは、どうでしょうか。

例えば、資正が、第二次国府台合戦のために、岩付を留守にしていた時、そして北条方の主戦力も国府台に集結していた時に、主役不在の岩付で、家臣や地侍らが戦った姿を想像する。これならばあり得るのではないか、と私には思えます。

【追記 2015/8/7】
その後再考し、加倉畷の合戦があったとすれば、永禄六年二月の松山城陥落~永禄七年正月の国府台合戦までの期間ではないか、と考えるようになりました。
太田資正の失敗⑦
『太田資武状』が語る岩付城の攻防


(4)太田資正と加倉口先の丘

加倉畷の合戦を信じたいと思う裏には、実はもうひとつ理由があります。

加倉口先の丘には、資正が岩付城の総鎮守に定めた(と言われる)久伊豆神社の分社があります。そして、この分社の由緒記には、太田資正が加倉村をこの地に新たに創設し、他の場所にあった久伊豆大明神の祠をここへ移して村の鎮守とした、とあるのです。


(岩付城の鬼門を守る総鎮守の久伊豆神社(新正寺曲輪))


(加倉口先の丘の久伊豆神社)

 

 

加倉口先の丘の久伊豆神社の由緒。
細かいことを言えば、元亀年間には、資正は既に岩付を追われて片野にいるのですすが・・・)

久伊豆神社の本社は、岩付城の北にあり、城の総鎮守として鬼門を守っています(築城当時の敵はこの方角の先にいた古河公方だったとも言われます)。

西から岩付城を攻めるには必ず越えねばならぬ丘に、太田資正は新たに村を作り、城を守護する総鎮守の分社を置いた、ということになります。

これが何を意味するか。

北条氏を敵とした資正が、その侵攻を防ぐに適した加倉口先の丘を、久伊豆大明神に守ってもらうべき第二の鬼門として捉え、整備した。私にはそう思えてなりません。

そして、わざわざ新たに村を置き、城の総鎮守の分社を祀った丘を、資正が、何らかの形で武装しなかったとも思えなくなってくるのです。

地侍たちにこの地を安堵する代わりに、西からの城攻めを防ぐ役割を与えるとともに、丘を越える道を敢えて急にしつらえ、守りやすい天然の城壁とした。つい、そんな様子も想像してしまいます。資正であれば、それくらいのことはしてもおかしくありません。

加倉口先の丘にある久伊豆神社は、資正が、この丘を対北条の城壁として見たことの証なのではないでしょうか?

この想像を念頭に加倉畷の合戦の記述を読むと、いろいろと合点がいきます。
資正の命を受けた地侍達が、この丘に地の利を得て、北条方の地侍達を撃退した物語として、実に自然に受け入れられるのです。
(ひとはこれを妄想と呼ぶのだと思いますが(笑))

加倉口先の丘の西側の低地湿地帯を歩くと、「西から来る敵を押さえるにはここだ」という思いは強まります。

加倉畷の合戦については、もう少し研究の光が当てられてもよいと感じます。



ちなみに加倉畷の合戦があったと言われる地は、昭和55年発行の「岩槻市地歴豆辞典」において、既に「現在は、東北縦貫道路等によって往時の面影は残っていない」とされています。
平成26年現在はどうかと言うと、東北縦貫道路(東北自動車道)の存在に加え、林立する無数のラブホテル群により、往時の面影は更に、更に、失われています。
カメラを片手に古戦場散策、とはいかぬ地になってしまったことは、少々残念です(笑)。



【図版追加① (2014.10.13)】
加倉口や加倉久伊豆神社の位置を、地形図上にプロットしてみました。

岩槻城・芳林寺・洞雲寺・知楽院・久伊豆神社

【図版追加② (2015.8.7)】
その後、「太田資正の失敗⑦」というエントリで、岩付城の東西からの攻撃に対する地形上の障壁を整理しました。加倉畷の合戦が実際に行われたならば、その場所は、下図左側の見沼や岩槻支台の傾斜部、ということになるのでしょう。

 

 

 

岩槻城の防衛ライン①

 

 

 


【参考1】
ここより少し南のカフェ「fufufu plus」さんの駐車場からの眺めは、「往年の加倉畷もかくや」と思わせるものでした。
小さな夜の音楽会

【参考2】
地図で見る太田資正の世界 (7)岩付城(岩槻城)とその地形

【参考3】
『太田資武状』が語る岩付城(岩槻城)の攻防