江戸時代末期に書かれたという「岩槻巷談」を読み始めました。

いまは、国立国会図書館のデジタルコレクションでこうした古い書物が気軽に読めます。
ありがたいことです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1188882

さて、読み始めた岩槻巷談ですが、、、

いや~参りました。
残念ですが、事実誤認が多過ぎて、とてもではありませんが、まともな史書として読むことができません。

書かれているのは、太田道灌や太田資正の時代。室町時代後期から織豊時代までです。
江戸時代末期に書かれたのだとすれば、250年くらい時代がずれていることになります。固有名詞の誤りや、経緯・系譜の誤認があっても仕方ないと言えば仕方ないのかもしれませんが、それにしても多すぎます。

「おいおい」と思った部分を書き出すと、、、

・江戸太田氏の始まりが、岩付太田氏の始祖の太田資家になっている。
(道灌の実子に連なるのが江戸太田氏、道灌の養子に連なるのが岩付太田氏。血縁としては道灌以前に別れた両系であり、道灌以降は両者に血の繋がりはありません)

・父・道灌を殺された復讐として、岩付太田氏の資家が北条氏と組んで扇谷上杉の居城としての江戸城を攻めたことになっている。
(江戸太田氏が扇谷上杉を裏切って北条氏についたことが、誤って伝わったようです)

・資家(資正の祖父)の息子が資正になっており、間の資頼(資正の父)、資顕(資正の兄)の存在が消されている。

・資正の名前が「資朝」になっている。

・資正に男子の息子がいなかったことになっている。
(資正の息子・氏資には息子がありませんでした。資正と氏資が混同されたようです)

・北条氏房が、資正の養子の形で岩付城に入っている。
(史実は、北条氏房の兄が、資正の息子・氏資の養子として太田氏を継いだ、です)

・岩付を追われた資正は、下野国佐野に移り住んだことになっている。
(実際には、常陸国片野です)

・岩付を追われた資正は、最後には北条氏房に赦されて、岩付に帰還。これにより氏房は資正から太田家を正式に継いだ、としている。
(資正は終世、岩付に戻ることは叶いませんでした。)

と、読むのが辛くなるくらいの事実誤認のオンパレードです。

しかし、江戸時代末期の岩槻で“語られていた歴史”を知る、という意味では、興味深いものがあります。
また、事実誤認は確かに多すぎるのですが、加倉畷の合戦のように、一片の真実を反映しているような記述も、いくつか散見されます。

危険な書ではありますが、読み込んでみようと思います。