地図で見る太田資正の世界 (3)松山城合戦から国府台合戦へ」の続きです。


1.岩付城追放後の資正の流転


起死回生の一戦として企画された国府台合戦で大敗した太田資正は、絶体絶命の危機に陥ります。


合戦の三ヶ月後になんとか岩付城に帰還した資正でしたが、「もはや北条氏との対立は続けられない」と判断した嫡男・氏資によって岩付城を追放されてしまいます。資正が里見氏との連携を協議すべく、岩付城を留守にした時を狙っての裏切りでした。

岩付太田家の分裂し、資正は居城を失います。

岩付城追放後の太田資正

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牢人時代の資正は、金山城(群馬県太田市)の横瀬氏や、忍城(埼玉県行田市)、宇都宮城(栃木県宇都宮市)などを頼り、各地を転々としながら、岩付城奪還を図ります(③、④、⑤)。

永禄8年8月の岩付城奪還戦は、横瀬氏の力を借りたかなり大掛かりなもので、資正は岩付城内に内応者を得て、城内まで攻め込んだそうです、しかし、内応者の一部が心変わりしてしまい、作戦は失敗。退却せざるを得なかったと言います(③)。


ちなみにこの時の内応者の一人が、太田下野守です。

異本小田原記によれば、太田下野守は、資正が嫡男・氏資を廃して次男・政景に家督を譲ることにしたと聞き、それに反対して氏資に付いたそうです。しかし、下野守は、この時の失敗に終わった岩付城奪還戦を機会に岩付城を出て、資正に従って諸国をともに放浪する人生を選びました。

一度は資正と袂を別ったものの、悩みに悩んだ末に、最後は領国を捨てて資正と人生を共にすることを選んだ太田下野守。


その結論を出すまでに、悩みに悩み、苦しんだことでしょう。


忍城の成田氏を頼った時は、北条氏康が忍城を包囲して籠城戦になったようです(④)。
資正は、この籠城戦で北条勢を跳ね返したようですが、間もなく頼る先を宇都宮氏に代えてます。これ以上、娘婿の成田氏に迷惑はかけられないと思ったのでしょうか。

宇都宮氏を頼った後で、資正が最後に行きついたのは、常陸の強豪・佐竹氏のところです。
佐竹義重は、「一将は求め難し」と言い、資正と次男・梶原政景を客将として迎え入れました。資正には片野城、政景には柿岡城を与えて。

この時、資正は既に道号「道譽」と、法名「三楽斎」を名乗っています。

片野城にあって、武田信玄・勝頼、上杉謙信・景勝、里見氏、織田信長、豊臣秀吉らと外交を行い、遠交近攻で北条氏を苦しめることになる「片野の三楽」が、ここに誕生することになります。



2.片野城の位置

地図上で片野城の場所を確認してみます。


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佐竹義重の居城・太田城が常陸国北部にあるのに対し、片野城(と政景の入った柿岡城)は常陸国の中央から南部に位置しています。
佐竹氏の仇敵・小田氏治の居城・小田城とは目と鼻の先です。

佐竹義重としては、客将として迎えた太田資正・梶原政景親子の力を借りて、小田氏治との抗争を有利に導きたかったのでしょう。

資正と政景は、佐竹義重の期待通りにを撃退し、佐竹氏を常陸国の覇者にしていきます。

それだけではありませんでした。
外交上手な資正は、北関東領主らと結び、佐竹氏を核としたによる反北条同盟(当時「御一統」と呼ばれた)を形成していきます。

佐竹義重は、資正の手腕によって、反北条の雄としての地位を確立していくのです。



(1)~(4)までと少し切り口は異なるのですが、
地図で見る太田資正の世界 (5)佐野と鹿沼」というエントリも書いてみました。