我らが太田資正が、佐竹義重の客将となってあてがわれた片野城の場所は、「地図で見る太田資正の世界 (4)岩付城追放後の資正」で確認しました。

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今回は、この片野城と筑波山の関係を、国土地理院の地形図で確認してみました。
それが下図です。

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ただの白地図で見ると、資正の片野城や、次男・政景の柿岡城は、抗争相手の小田城と隣接して見えますが、地形図で見ると、両者の間には筑波山とそれに連なる山々が聳えていることが分かります。

敵対勢力と平地で地続きだった岩付城(岩槻城)時代に比べ、片野城時代の資正は地形に恵まれていたと言えるかもしれませんね。

→「地図で見る太田資正の世界 (7)岩付城(岩槻城)とその地形」へ

【参考】シリーズバックナンバー
地図で見る太田資正の世界 (5)佐野と鹿沼
地図で見る太田資正の世界 (4)岩付城追放後の資正
地図で見る太田資正の世界 (3)松山城合戦から国府台合戦へ
地図で見る太田資正の世界 (2)資正の活動範囲
地図で見る太田資正の世界 (1)資正の領国・勢力範囲