こんな風に、家で時間とパソコンを占有して、趣味の調べ物とその整理をする機会は、最近ありませんでした。
せっかくの機会なので、開き直ってもう一本。
今度は、武州松山城(以下、松山城)と河越城の地形を確認します。
(黄色の部分がかつての低湿地です。)


(1)松山城と河越城の位置

松山城と河越城の位置を、岩付城やその支城である寿能城や石戸城との関係で、見てみます。


松山城、河越城、岩付城

(色別標高図+明治前期の低湿地、クリックすると大きくなります)


この地形図で見ると、松山城と河越城の間には、多くの川が流れ、広い湿地帯が広がっています。
南から北に伸びる台地(川越台地)の先端にあって北に張り出す河越城と、北から南に伸びる丘陵(吉見丘陵)の先端にあって南に張り出す松山城。それぞれが乗る地形も対照的です。

扇谷上杉氏と後北条氏の抗争において、天文6年(1537年)河越城を奪った後北条氏も、その後なかなか松山城を落とすことができなかった(天文15年の河越城合戦の勝ちに乗じて奪取)のも当然だと言えるかもしれません。

(おまけ)
その後、松山城は、永禄年間に、太田資正と後北条氏の間で係争されることになります。
太田資正は、松山城から見て、北条方の河越城よりも遠い岩付城にいた地理上の不利に対処するため、軍用犬による情報連絡を行ったと言われます。確かに岩付城と松山城は遠いのですが、岩付城の支城のひとつ、石戸城は結構よい位置にあります。石戸城に信頼できる家臣・国衆を置けば、松山城への後詰(救援)はさほど難しくなかったのではないか?という気も。

しかし、実際には、史実をたどる限り、石戸城はそれほど重く用いられた様子がありません。
何故なんでしょうね?


(2)松山城の地形詳細

松山城の地形を拡大してみました。

(色別標高図+明治前期の低湿地、クリックすると大きくなります)


(さらに拡大、クリックすると大きくなります)


まったく、城を築くにはこれ以上ないほど素晴らしい地形ですね。
平野に突き出た急峻でコンパクトな丘陵、西側は市野川が丘陵にまとわりつくように流れて天然の濠となり、東側には大きな沼。
南東から攻めれば川も沼もありませんが、この角度に対しては丘陵の傾斜が一段と険しくなっています。

欠点があるとすれば、丘陵が北に連なっている点でしょうか。
ここをつたって松山城に攻め込む手がありそうですが、細い丘陵ですし、松山城本城の手前で高度が下がっているため、攻め込むにはやはり傾斜が敵になります。

河越城を奪われた扇谷上杉氏が、この城に籠って、後北条氏の北進に10年耐えられたのも、この地形あってのことでしょうね。
永禄年間には、太田資正の家臣らが籠城し、武田信玄と北条氏康の連合軍の猛攻を一定期間阻止しています。最終的には、信玄の調略によって落城するですが、裏を返すと武田勢であっても力攻めではこの城を落とせなかった、ということでもあります。

甲陽軍鑑の言う通り、まさに諸国に鳴り響く堅城です。


(3)河越城の地形詳細

続いて河越城です。
上にも書きましたが、河越城は、南から北に伸びる川越台地の先端にある城です。
しかもこの台地の三方(西、北、東)をまとわりつくように新河岸川が流れていて、天然の濠となっています。その更に外側にも入間川が、新河岸川と相似形を成して流れおり、まさに二重の濠が形成されています。

河越城

(色別標高図、クリックすると大きくなります)

河越城と入間川


(色別標高図+明治前期の低湿地、クリックすると大きくなります)

新河岸川も入間川も、
・河越城の西側では、南→北方向に、
・河越城の北側では、西→東方向に、
・河越城の東側では、北→南方向に、
流れているのですから、恐れります。


川越台地の他にも、南から北に伸びている台地はこの周辺に存在するのですが、川越台地のように三方を川に守られた台地はありません。
河越城が重要な城となったのは、地形から来る必然だったと言えるでしょう。

相模国や武蔵国南部を押さえた勢力が、北の敵対勢力と対峙するには、これ程適した地形は他に無いのではないでしょうか?


太田道灌が河越城を築いた時、道灌や主家・扇谷上杉家の本拠は南の相模国や武蔵国南部でした。そして敵は、北の鉢形城を本拠とする長尾景春。道灌が、北に睨みを効かせる上で、河越城は大いに機能したはず。


しかし、南側に対しては、何ら自然の障害が無いのがこの城の欠点でもあります。

太田道灌の時代であれば南は自国領の中央部なのですから、防御の必要はありません。しかし、太田資正の少年時代には、状況は変わってしまいました。扇谷上杉家は既に、後北条氏によって相模国と武蔵国南部を奪われ、河越城は扇谷上杉領の最南端の城となってしまったのです。

地形から考えて、この城を、北の勢力が南の勢力に対峙するための要塞として使うのは無理があります。
河越城が、後北条氏によってすぐに奪われてしまったのも、また必然だったのでしょう。


そして皮肉ながらも必然として、河越城は後北条氏の手に落ちると再度、北の敵対勢力に睨みを効かせる北端の要塞として、大いに機能していくのです。

この運命は、岩付城(岩槻城)とも通じるものがあります。
岩付城も、道灌築城伝説と呼応するように、南西の勢力(扇谷上杉)が、北東への勢力(古河公方)に刃を突きつけるのに適した地形に乗っています。北東からの攻めに強い反面、南西からの攻めには弱い地形です。
道灌の曾孫の太田資正は、父から受け継いだこの城を居城とし、南西の勢力(後北条)と戦うのですが、地形に逆らった反乱は長くは続かず、敗退していきます。
しかし岩付城自身は、後北条氏に落ちると、今後は北東勢力への進行拠点として大いに機能していきます。

江戸城も似た運命を辿りますので、太田道灌が築いた城は、すべて
・太田道灌の主家や子孫には、その後、守りにくい城になり、
・太田道灌の主家や子孫の敵である後北条氏には、抜群に使い勝手のよい城となった、
と言えるかもしれません。

道灌の城は、自勢力が相模・武蔵南部を押さえてることを前提としていました。
道灌の主家や子孫であろうと、相模・武蔵南部を失えば、道灌の城はもはや頼れない城になります。道灌の主家や子孫の敵対勢力であろうと、相模・武蔵南部に勢力を展開しているなら、道灌の城は使いやすい、頼れる城となります。当然と言えば当然なのですが・・・己の築いた城が己の子孫を苦しめたと知ったなら、道灌はどんな顔をしたでしょうか。


いずれにせよ、地形を見れば、河越城が後北条氏にとってどれ程重要な城だったかは、明白です。
正直なところ、これほど明白に城の特徴が見えてくるとは思っていませんでした。

地形は面白いですね。



地図で見る太田資正の世界 (9)もう一度、資正の勢力範囲」というエントリも書いてみました。

【参考】
地図で見る太田資正の世界 (7)岩付城(岩槻城)とその地形
地図で見る太田資正の世界 (6)片野城と筑波山
地図で見る太田資正の世界 (5)佐野と鹿沼
地図で見る太田資正の世界 (4)岩付城追放後の資正
地図で見る太田資正の世界 (3)松山城合戦から国府台合戦へ
地図で見る太田資正の世界 (2)資正の活動範囲
地図で見る太田資正の世界 (1)資正の領国・勢力範囲

【関連】
武州大乱 ~松山城を巡る攻防の証言~
武州松山城を歩く
地図で見る太田資正の世界 (3)松山城合戦から国府台合戦へ
太田資正と武州松山城の攻防