※ またマニアックなものを書いてしまった・・・

昨日のエントリ「太田道灌の三城の戦略とその後継者」に書いたことですが、太田道灌(あるいはその父・道真)が築いたと言われる三城(江戸城、河越城(川越城)、岩付城(岩槻城))の内、岩付城のみが武蔵野台地に乗っていません。

岩付城が築かれたのは、大宮台地の東端の岩槻台地(岩槻支台とも言うようです)の上。
今日、武蔵野台地と大宮台地は荒川で分断され、その間には荒川低地が広がっています。
(下図参照)

武蔵野台地と大宮台地



同じ武蔵野台地に乗る江戸城と河越城であれば、台地を介してスムースな行き来が可能だったことでしょう。
しかし、この二城との間に、荒川と荒川低地という自然の障害物を持つ岩付城は、どこまで河越城や江戸城と結びついた存在たりえたのでしょうか?

これは、近年史学界で劣勢となっている岩付城太田道灌築城説(正確には父の道真築城説)を考える上でも、重要な視点となるはずです。


これまで何度か見てきたように、岩付城(岩岩槻城)は、半径一キロ程度の視野で地形を眺めれば、この城が、元荒川の対岸に仮想敵を設定していることは明白です。(下図参照)

岩付城・岩槻城の地形図

岩槻城・岩付城の防衛ライン


しかし、視野を半径数キロに広げると、もう少し複雑なこの城の事情が見えてきます。
岩槻台地は北西から南東方向に細長く伸びる台地。大宮台地は、岩槻台地と似たような北西から南東方向に伸びる台地が、複数折り重なるようにして形成された台地です。

この台地を介して、太田道灌らの本拠地であった相模国と岩付城付近を直線で結びます。するとこの直線は、この複数の台地とほぼ直角に交差するのです。
(下図参照)

大宮台地と相模国


これは、相模国から直線コースで岩付城を目指すと、多くの台地とその間だの低湿地を越えていかねばならない、ということを意味します。
中世は灌漑技術・干拓技術が十分でなかったため、街道は尾根道や台地の上を通るもの。これほどに尾根を次々乗り越えていくとなれば、相当に骨の折れる行程となったはずです。

相模国から地続きの巨大な台地・武蔵野台地に乗る江戸城や河越城と較べ、岩付城は、相模国との地形的な結び付きが希薄な城だったと言えそうです。

道灌時代に相模国を本拠地とした扇谷上杉氏の城としては、連携が取りにくい僻地の城だった、とすら言えるかもしれません。

地理的に相模国と連携しにくいこの城を、江戸城や河越城と同レベルで扱ってよいのか。
この答えを見いだすことができれば、史料だけでは決着がつかない(※)「岩槻城は誰が築いたのか」問題も、答えが見えてくるはずです。


それには、江戸時代の荒川の西遷以前の武蔵野台地と大宮台地の地理的関係や当時の街道を調べることが、役立つはずたと、私は見ています。
今日の荒川は、大河として武蔵野台地と大宮台地の間を切り裂いていますが、これは江戸時代の荒川の西遷の跡の姿です。

西遷以前の荒川の本流は、今日の元荒川の川筋で流れていたため、武蔵野台地と大宮台地の断絶は今日程ではなかったかもしれないのです。

<<荒川の西遷についての国交省の説明サイト>>
http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/83029/83029-1_p1.html

そのようなわけで、しばらくは、荒川西遷以前の武蔵野台地と大宮台地の地形的関係を調べてみたいと思っています。

 ※

・・・と、大袈裟な前ふりをしてしまいましたが、
よく考えてみたら、近代以前の街道を調べれば、岩付城と江戸城・河越城との結びつきは、おおよそわかるものですね。

江戸時代に、江戸城と岩槻城(江戸時代には岩付城ではなく、岩槻城が正式名称になりました)を結んだ街道である日光御成街道を、地形図上に書いてみると・・・

岩付城(岩槻城)と江戸城

なんのことはありません。
日光御成街道は、
・江戸城から岩淵宿までは武蔵野台地のふちを通り、
・川を越えてからは大宮台地を形成する細い小台地を、次から次に縦に辿る、
という経路で伸びています。
太田道灌の時代は、まだ荒川の西遷はなされていませんので、岩淵宿と川口宿の間で渡るのは、荒川ではなく旧入間川。今日の荒川よりは間違いなく小さい川です。渡る苦労は江戸時代ほどではなかったはずです。

また、鳩ヶ谷宿→大門宿→岩槻城は、大宮台地を形成する細い小台地の尾根を歩くような進路です。街道は、地形を利用していたのですね。

こうして繋いでいけば、道灌時代も、江戸城と岩付城は十分に繋がったことでしょう。

日光御成街道の肝となるのは、武蔵野台地から大宮台地に移る直前の地・岩淵。太田道灌は、この地に稲付城という城を築いたことが伝わっています。
この城は、江戸城と岩付城をつなぐための城だったのかもしれませんね。

ちなみに、我らが太田資正も、領国の最南端は岩淵だったとか。
岩付城を、江戸城の遠山綱景から守るには、武蔵野台地と大宮台地の結節点であるこの地を押さえることが重要だったのでしょうね。

【追記】
大宮台地の尾根を通る日光御成街道のルートについては、後日またエントリにまとめてみました。
→「地形から見る日光御成街道

 ※

岩付城と河越城を結ぶ街道は、また後で調べます。
・・・と思ったのですが、黒田基樹の「戦国大名 政策・統治・戦争」(平凡社新書)の『北条領国における交通図』(p.109)を見ると、河越城と岩付城を結ぶ街道は無かったようですね。今日の川越と岩槻は国道16号線で結ばれていますが、これは近代以前の街道とは別に作られた新しい道路です。
やはり、河越と岩付は、結び付きが弱そうです。

となると、江戸城、河越城、岩付城の三城は、江戸城を起点に河越城と岩付城が並立するような関係だったのでしょう。
“道灌トライアングル”の実態は、存在したならば下図のようなものだったのでしょう。

道灌トライアングル再考


こう考えて行くと、地形からは、道灌(ないし道灌の一族の誰か)による岩付城築城は、それなりに説得力がありそうです。

【追記(2018年2月10日)】
上の“道灌トライアングル”において、河越城を「対・鉢形城(長尾景春)」としましたが、これは2014年10月時点の私が「享徳の乱」をあまり理解していなかった故の誤りです。
河越城が築城されたのは長禄元年(1457年)であり、長尾景春の乱が始まった文明九年(1477年)の二十年も前のことです。
河越城の想定する敵は、古河公方足利成氏が1455年に落として、両上杉攻めの前線とした騎西城です。
訂正いたします。
【追記(2018年2月10日)ここまで】

【参考】
※ 岩槻城築城者に関する史料研究について。(黒田基樹氏の研究成果を参照しつつ、私の私見を交えて整理しました。)

●同時代史料は、道灌・道真による築城説を支持せず。

・道灌あるいは同時代の道灌関係者が岩付城(岩槻城)築城や運用に関わったことを示す同時代資料は存在しません。道灌の岩付城築城説は、江戸時代に書かれた軍記物「鎌倉大草紙」が道灌の父・太田道真が古河公方と対峙するために岩槻城を築いたと記したことが初出です。

・岩付城の城主として史料で確認できるのは、岩付の古豪・渋江氏。道灌の死後に、岩付の城持ち領主として存在感していたことが確認されます。(古簡雑簒七)

・逆に、後に岩付太田氏として知られるようになる太田資正の家系が岩付城主として史料に現れるのは、資正の父・資頼の代から。それも、渋江氏から岩付城を強奪した記録での登場となります。(年代記配合

・史料上は、“道灌以来の太田氏だいだいの城”という伝統的な岩付城のイメージには根拠が見つからない状態と言えます。


●新定説・成田氏築城説も、実は根拠が薄い

・ 現在の新定説、岩付城・成田氏築城説は、一級の同時代史料「自耕斎詩軸并序」 に基づいています。

・これら、同史料に「岩付左衛門丞顕泰」の父「自耕斎」が岩付城の築城者だとでており、同時代・同地域で「顕泰」の名を持つのは忍(行田市)の成田顕泰であるとして、成田顕泰の父を岩付城築城者に同定するもの。中世史・戦国史の専門家である黒田基樹氏が提唱した説です。

・成田顕泰の父が「自耕斉」ならは、「成田自耕斉」と呼称して問題視無かろうということで、最近の歴史解説書では「成田自耕斉」という人物名が登場するまでに至っています。

・しかし、「成田」と「自耕斉」の組合せは史料では確認できません。「成田自耕斉」は少々やり過ぎでしょう。

・また、忍(行田市)の成田氏に、遠い岩付で城を築く力が当時あったのかも疑問視されています。

・加えて、岩付城の地勢も、古河公方側だった成田氏が築いたにしては、古河方向と対峙するものであり、整合が取れません。

・そもそも、「顕泰」の名の共通性のみで、「岩付左衛門丞顕泰」 を成田顕泰と同定すること自体がやや強引だと言えるのではないでしょうか。
(にもら拘わらずこの説が定説化しているのは、提唱者の黒田基樹氏が、いまや日本中世・戦国史の大家となったから? 私は黒田基樹氏のファンですが、氏がことあるごとに「成田自耕斉」を自著の地の文に織り込んでいる点は、少々感心できないと思っています)


●ただし、地元史家の反論も説得力に難あり。

・成田氏築城説への反論書が、岩槻の地元史家・小宮勝男氏から出されました。

・成田氏築城説の甘さを衝いた点では大いに意義があるものの、残念ながら代案として出した築城者説は、推測に推測を重ねたものであり、“あったかもしれない物語”に留まり、決定力が欠けています。(いずれこの件について詳述したいと思います。【追記】書きました→「岩槻城は誰が築いたか」を読む


●現在は
・史学界では、黒田基樹氏の「成田自耕斉」は定説として扱われる一方、岩槻では小宮勝男氏が打ち上げた成田氏築城説否定論があまり精査を受けないまま受け入れられつつある、という状況。

・市井の史家の反論に耳をかさない史学界と、自説の甘さに目をつぶり成田氏築城説は崩壊したと一方的に勝利宣言をする地元史家。両者の間に、オープンでフランクなコミュニケーションが無いことが残念です。


論集戦国大名と国衆 12 岩付太田氏/岩田書院
¥4,320
Amazon.co.jp

岩槻城は誰が築いたか―解き明かされた築城の謎/さきたま出版会
¥1,296
Amazon.co.jp