先日紹介した、武州は岩殿山正法寺の僧侶・栄俊の覚書。
それは、武州松山城を巡って、北条氏康と太田資正が百日間に渡って対峙し、遂に北条勢が松山城攻略叶わず撤退したことを伝える同時代証言でした。
武州大乱 永禄年間の松山城攻防戦とその証言

末代のおぼえに書也・・・(中略)・・・松山之城堅固ニ太田持也、然所ニ氏康、伊豆相模ヲタナビキ、勝沼エ押寄セ、三田弾正城ヲ取リ、松山エ押シ寄セ、百日小代高坂ニ陣ヲ取、松山城、岩付ヨリ太田美濃守堅固ニ持チケレバ、為不叶、武州ノ大伽藍、岩殿を始とシテ悉ク放火、其時、岩殿七堂モ放火也。武州廿四郡之内、十五郡悉ク、人家七年絶エル也

永禄年間の武州松山城の攻防は、武田信玄が参戦した永禄五年~六年にかけての攻防が最も有名です。この時、太田資正は北条・武田連合軍に敗れたため、武州松山城の攻防戦は、資正敗退のイメージが強く印象に残ります。

しかし、北条氏康が、わざわざ武田信玄を引きずり出したのは、そもそも太田資正が手強い相手であったため。「犬の入れ替え」の逸話が語るように、北条勢の松山城攻めを太田資正が悉く撃退した時期があったはずです。岩殿山正法寺の僧栄俊の覚書は、太田資正が北条勢の攻めを跳ね返していた時期の様子を具体的に伝えてくれる点で、私にとって非常に興味深いものでした。

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自ら軍勢を率いて、百日間に渡って陣を敷いたのですから、北条氏康も本気だったはずです。

対する太田資正も必死です。松山城を奪われれば、上野国と北条本国を繋ぐ街道が北条氏の手の内に戻ることになります。上杉謙信(長尾景虎)の越山・関東入りによって反北条に鞍替えした上野の領主達が再び北条服属に戻る恐れがあります。そうなれば、資正の岩付領は、北条側の河越領と上野国の北条側領主らに挟撃される立場となり、圧倒的に不利になります。

資正が、北条氏と互するには、後背地として上野国の領主らを反北条・親上杉のままにしておく必要があり、それを保つには、松山城は決して落としてはならない城だったのです。(この解釈は「武州松山城を歩く」から)

松山城の戦略的重要性

(松山城の戦略的重要性)

北条氏康と太田資正の直接対決は、関東の覇権の行方を決める大戦(おおいくさ)として、周辺の領主達が固唾を飲んで見詰めた戦いだったことでしょう。そして、寡勢であった資正が氏康の攻めを凌ぎ切ったことは、驚きをもって迎えられたはずです。

太田資正にとっても、大きな意味を持つ勝利となるはずでした。

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さて、松山城を奪回せんと岩殿山付近の高坂に陣を敷き、百日間も居座った北条勢に対して、太田資正は如何に戦ったのでしょうか。

資正が、どこに陣を置いて氏康と戦ったのか。それを伝える史料はありません。
資正の戦いぶりは、妄想するしかないのです。

私の思い浮かべるイメージ(妄想)はこうです。

氏康自ら松山城に向けて進軍す、の報を犬の入れ替えで知った岩付城の資正は、松山城には入らず、東の石戸城に入ります。
比企丘陵東端の松山城に対して、石戸城は東の大宮台地の西端にある城です。石戸城に入れば、比企丘陵と大宮台地の間にある低地を挟んで、松山城に向かい会うことができます。

石戸城・松山城・岩殿山の関係



石戸城は、大宮台地の上にあり、そのまま台地づたいに資正の本拠地・岩付城に繋がっている城です。西から攻められたとしても、東の岩付城から後方支援を受けやすい城だったはずです。
(春日氏の丸山城はその中継地として機能したかもしれません)

石戸城・岩付城連携


加えて、私が、資正が石戸城に入ったと考える最大の理由は、後詰め(援軍)に現れた資正までもが松山城に入ってしまえば、北条勢から一網打尽にされてしまうためです。

松山城は堅牢な山城ですが、地形的にはやや孤立した山の上に築かれています。。一旦包囲されてしまうと、落城はせずとも“袋の鼠”状態になってしまうのです。
後詰め(援軍)に来た資正が、松山城に入ってしまえば、北条側からすれば一網打尽の大好機となりす。戦上手の資正が、そんな真似をするとは思いません。

資正は、松山城に近い石戸城に入り、松山城・石戸城の二城を用いて、多勢である北条勢と戦ったのではないでしょうか。

即ち、
①北条勢が岩殿山(正確には高坂)を出て松山城攻めれば、資正が石戸城から出陣してその背後を叩く、
②北条勢が石戸城に矛先を変えれば、今度は松山城から北条勢を挟み撃ちせんとする軍勢が飛び出す、
という戦い方です。

松山城を巡る攻防


松山城攻防



北条勢はおそらく一万前後の兵力だったはずです。対する岩付勢は、せいぜい一千五千騎(通称「岩付一千騎」、後に北条支配下の岩付衆の徴用は一千四百騎)です。
普通に広い場所で野戦に及べば、岩付勢の完敗は目に見えています。しかし、松山城と石戸城に別れて軍勢を配置すれば、岩付勢は、一度に相手にする軍勢を数千程度に数を減ことができます。

城攻めには、籠城側の数倍の兵力を要する。それは古今東西変わらないことです。一方の城を攻めても直ぐには落とせず、その背後をもう一方の城から襲われるという状況では、籠城側を追い込むかとはできません。

仮に、北条勢が軍勢を二手に分けて、松山城も石戸城も、どちらも包囲しようとしたと考えます。この場合、一万程度の兵力しかなければ、本陣である岩殿山(正確にはその付近の高坂)の守りが手薄になります。

資正が、もし岩殿山周辺に火を放つ少人数の別動隊を送り込めば、北条勢の本陣を焼き払ってしまうことができるでしょう。

松山城攻防


そうなのです。
完全に妄想の域に入りますが、岩殿山正法寺の焼尽は、そんな展開の後に起こった結末であるように、私には思えるのです。

そして、松山城と石戸城の間での密な連携には、伝令犬が使われていたのではないか。そんな妄想も浮んできます。

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岩殿山付近の本陣を焼かれた北条氏康は、松山城奪還を一旦諦め、陣を払って小田原に帰ります。

氏康自ら率いる多勢の北条勢を撃退した資正の権威は大いに高まり、資正自身も己の力に自信を深めたのではないかと思います。
「犬の入れ替え」の逸話が、人々の記憶に深く残ったのも、この時の勝利があったからだと考えれば納得がいきます。

しかし、北条氏康は負けたままではいない男です。
氏康の打開策は、同盟相手である武田信玄を援軍として投入すること。氏康が、武田信玄を呼び寄せて再度松山城攻めをしたとき、資正の松山城・石戸城の二城戦術は機能しなくなっていた、という展開を私は想像しています(妄想に妄想を重ねています(笑))。

松山城を包囲する軍勢が数千程度であれば、石戸城から資正が一千騎を率いて背後を攻めることで、攻城側は混乱します。
しかし、松山城を包囲したのが、北条・武田連合の四万の軍勢だったらどうか? 一千騎程度の軍勢では何もできません。背後から攻城側を攻めようとも、むしろ四万の軍勢に包囲され、殲滅されてしまいます。

武田信玄が松山城包囲に参戦し、攻城側が四万の大軍となったとき、資正にできることはなくなります。
「犬の入れ替え」で松山城の危機を知り、石戸城に駆け付けたとしても、そこから先には一歩も進めなくなった資正の姿を、私は想像します。

大宮台地の西の端の高台にある石戸城から、松山城が北条・武田の大軍に囲まれている様子を遠望する資正。
もはや己の力だけではどうすることもできない状況を前に、彼は何を思ったか。

それまで多勢に無勢を知恵で補ってきた資正の戦術は、氏康のさらなる多勢を以っての攻めによって真正面から打ち砕かれました。

松山城・石戸城の二城戦術は私の妄想ですが、永禄年間の太田資正の勝利と敗北をうまく説明できる仮説であると感じています。


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