※ もともとは1月23日のエントリでしたが、地図を追加して大幅加筆したのでアップ日を更新しました。

太田資正(三楽斎)は、現在のさいたま市岩槻区を根拠地として、戦国時代の武蔵国東部を支配した戦国領主。

関東外の有力大名と組んで、既に関東最大勢力となっていた北条氏にガチンコのぶつかり合いを挑んだこと(そして敗れても敗れても再起し再び戦いを挑んだこと)で知られる人物です。

しかし、その領国は、上杉謙信や武田信玄、あるいは北条氏康など複数の国にまたがる領域を支配した大大名と比べれば、実に小さく、微々たるもの。武蔵国の北半分のさらに三分の一程度でした。
それは、後に秀吉から「三楽程の者が一国すら持たぬ不思議」とからかわれる程度の版図でした。
(秀吉が評した資正の領国は、正確には、岩付を放逐された後に得た常陸国・片野ですが、秀吉の「一国すら持たぬ」は岩付にも片野にも当てはまります)

・・・というのが、私の理解。
この認識は今後も、基本的には変わらないと思います。

しかし、大宮図書館で、さまざまな“市史”を読み進める内に、太田資正の領国をあまり小さく捉えるのも誤りだと思うようになりました。

私が目を通した市史の中で、
・春日部市史
・越谷市史
・桶川市史
・戸田市史
・北本市史
・上尾市史
・鴻巣市史
・伊奈町史
・川口市史
・旧・大宮市史 (現さいたま市)
・旧・浦和市史 (現さいたま市)
・旧・与野市史 (現さいたま市)
・旧・岩槻市史 (現さいたま市)
と、これだけの市史が、自市の戦国時代の歴史を、岩付太田氏の興隆と敗退の歴史として描いるのです。

旧・岩槻市を除けば、他の市にとって太田資正は(今日の行政区で考えれば)他市域に居城を持つ領主。しかし、いずれの市域もその影響下に組み込まれていました。
そして、資正の命じるまま大勢力・北条氏との戦いに身を投じていったのです。

これらの市史をめくりながら、次から次へ、またかまたか、と遠い岩付(岩槻)の資正が主役となる戦国史が語られることに、頭ではわかっていたものの、改めて驚きを覚えてしまいました。

そして、「資正はささやかながら己の帝国を築いていたのだな」と感じました。

他の大大名に比べれば、やはり非常に小さな領域ですが、その大大名との戦いに行けと資正が命じれば従わざるを得なかった複数の市域は、資正という小皇帝の下に統べられた“帝国”だった。

多くの周辺市史を読んだ私には、そんな認識が育とうとしています。

【地図追加】
上記の情報に加え、過去の太田資正の勢力範囲調べの情報も加味し、市域・町域ベースで、太田資正の版図・勢力範囲を地図化しました。

(参考:過去の調べ物)
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11897638079.html
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11925484885.html
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11937335661.html
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11927925112.html
http://ameblo.jp/hamikara/entry-11930927078.html


0.太田資正の“帝国” 最大版図 
領国とは言いにくい地域(軍事行動をしただけ、あるいは市域の1/3程度を領有など)も含めた拡大解釈版図です。
拡大解釈版図がこうなった理由は、1.以降で追っていきます。



1.太田資正の“帝国” ①さいたま市岩槻区
太田資正の居城である岩付城(後の岩槻城)のあった地域。
資正が最初に、寺領安堵の判物を発給した天台宗の大寺・慈恩寺も同じ地域に存在します。資正の領国統治の中心地と言えるエリアです。
太田資正の帝国①岩槻区


2.太田資正の“帝国” ②さいたま市その他の区
資正が早い段階で掌握した地域は、ほぼ現在のさいたま市をカバーしています。
太田資正の帝国②さいたま市
・一番西の「西区」には、資正の庇護下にあった清河寺があり、
・西区の東側の「大宮区」には、岩付城の支城・寿能城があり、
・大宮区の南東の「浦和区」は、資正が妹を嫁がせた有力家臣・三戸駿河守の領国と伝えられ、・大宮区の南西の「中央区」は、岩付太田氏の武者大将・太田下野守(あるいは兄弟の太田下総守)の領国と伝えられ、
・岩槻区の南西の「緑区」には、永禄年間の北条氏と資正の正面対決の際に、資正の勝利を祈願し、大般若経の真読を行ったことで有名な氷川女体神社があります。


3.太田資正の“帝国” ③戸田市+川口市
・黄色部左の戸田市も、さいたま市中央区と並び、太田下野守(あるいはその兄・下総守)の領国だった地域です。
・黄色部右の川口市は、国府台合戦で命を落とす資正の老臣・平柳蔵人の館跡がある地域です。また、川口市の金剛寺は、資正の庇護下にあったようです。
太田資正の帝国③戸田市+川口市


4.太田資正の“帝国”④ 宮代町+春日部市+越谷市
・うぐいす色部上段の宮代町は、太田資正の庇護下にあった西光寺のあった地域。
・うぐいす色部中段の春日部市、下段の越谷市は、資正との明確な関わりを示す情報は乏しいのですが、両市の市史が、戦国期の記述を岩付太田氏の動向にしているため、統治下にあったと推測。ただし、越谷市は、資正が庇護したと考えられる大相模不動尊があります。
太田資正の帝国④宮代町+春日部市+越谷市


5.太田資正の“帝国” ⑤伊奈町+蓮田市+白岡市
・緑部左の伊奈町は、太田氏家臣の春日氏の領国。資正の庇護下にあった「赤井坊」もこの地にありました。
・緑部右の白岡市は、資正庇護下にあった忠恩寺のある地域です。
・緑部中央の蓮田市は、資正の家臣だった野口氏の居城跡が残されています。
太田資正の帝国⑤伊奈町+蓮田市+白岡市

この2市1町の北に位置する久喜市も、鷲宮神社が太田資正の庇護下にあったことを伺わせる書状が残されています。
しかし久喜市は永らく古河公方の勢力下にあった地であり、資正の統治下にあったと言い切ることは難しいかもしれないと思い、本図からは外しています。


6.太田資正の“帝国” ⑥鴻巣市+北本市+桶川市+上尾市
太田資正の帝国⑥鴻巣市+北本市+桶川市+上尾市
・水色部の最下部の上尾市は、伊奈町と同様、太田氏家臣の春日氏の館跡が残る地域。
・その一つ上(北)の桶川市は、資正の統治下にあったことを示す明確な史料・史跡はありませんが、もう一つ上(北)の北本市が資正統治下にあったため、間の地域ということで領国に含まれていたと考えられます。桶川市史も、戦国期の記述は、基本的に岩付太田氏の動向について記しています。
・桶川市の一つ上(北)の北本市は、岩付城の支城・石戸城があった土地。
・石戸城は、資正の父・資頼の時代から、太田氏所縁の城だったようです。上杉謙信が、松山城合戦に後詰に現れた時も、資正領地の安全な場所として、まずこの城に入っています。
・水色部最上部の鴻巣市は、資正の庇護下にあった大行院がありました。


7.太田資正の“帝国”⑦ 川島町+富士見町
・コバルトブルー部上段の川島町は、比企郡の中で、伝統的に太田氏の支配が及んでいた地域です。岩付太田氏の菩提寺である養竹院や、資正が伝馬制度を引いた三保谷郷等もこの地域にありました。
・コバルトブルー部下段の富士見町は、難波田城(南畑城)跡があることで知られる地域。最近の研究で、この難波田城は、永禄年間には資正側の支城となっていたことが判明したようです。
太田資正の帝国⑦川島町+富士見町


8.太田資正の“帝国”⑧ 川越市+東松山市+吉見町
このあたりから、太田資正の領国とは言いにくい地域が中心になります。
太田資正の帝国⑧川越市・紫色部の川越市は、市の東側三分の一程の地域(古尾谷(現・古谷))が、北条氏から与えられた太田資正の所領でした。白地図の機能上、東川側の三分の一だけを塗りつぶすことができず、こうした見せ方になってしまいました。
・濃いブルー部は、左(西)が東松山市、右(東)が吉見町です。両地域を合わせたのが、旧・松山領に相当します。太田資正は、上杉謙信(長尾景虎)の越山・関東入りの後に、松山城(元は義父から受け継いだ城でした)を奪還しますが、それは北条氏の強い反発を招き、武州大乱とも呼ばれる熾烈な松山城・松山領争奪戦を招くことになります。資正の松山領(東松山市+吉見町)の支配は、永禄4年秋(松山城奪還)から永禄6年2月(松山城落城)の短い期間に過ぎませんでした。資正は、この時期、松山領を軍事的には支配したと言えますが、領国経営をしたとは言い難いでしょう。


9.太田資正の“帝国”⑨ 坂戸市
ピンクで塗った坂戸市は、資正が永禄四年四月に比企左馬助に安堵した入間郡勝があった地域。ただし、実際には、所領安堵の判物は形ばかりで、この地域を比企左馬助が安定して統治したことはなかったようです。
太田資正版図とは、言い難い地域です。
太田資正の帝国⑨坂戸市


10.太田資正の帝国⑩ 寄居町+小川町+越生町+毛呂山町+所沢市
最後のグレー部は、太田資正が永禄年間の北条氏との直接対決の際に合戦が行われた地域です。資正の領国・版図と言うことはできませんが、軍事的な影響力の及ぶ最大範囲を知る上では目安になりそうです。
太田資正の帝国⑩

・グレー部最上段の寄居町は、永禄五年七月に上田朝直(元・松山領領主、資正に松山城を奪われ、秩父に隠遁していた)と、資正が合戦を行った場所。道祖土図書助の活躍で、資正側が勝利したと伝えられています。
・寄居町の下(南)の小川町は、永禄四年に北条氏政と太田資正が合戦を行った比企郡飯田がある地域。この時の勝敗は不明です。
・小川町の下(南)は越生町。資正にとっては、曾祖父にあたる太田道灌の墓がある龍穏寺がある地域です。上杉謙信(長尾景虎)の越山・関東入りに合わせ、資正はこの地域に派兵したようです。龍穏寺に資正の禁制が出されています。
・越生町の下(南)の毛呂山町は、永禄四年九月に北条方の江戸衆(遠山綱景)と、資正の合戦が行われました。この時点ではまだ資正側優勢だったようです。
・グレー部最下部は所沢市です。越生町と同様、資正は上杉謙信(長尾景虎)の越山・関東入りに合わせ、この地域に派兵したようです。同地の岩崎宛てに資正の禁制が出されています。





太田資正の領国、という意味では、上杉謙信(長尾景虎)の越山前からの統治範囲を示す、上の①~⑦+⑧の川越市の東側三分の一が、最大領域と考えて良さそうです。

上杉謙信越山の勢いを借りた勢力伸長で広げた軍次的な影響圏となると、寄居町→小川町→越生町→毛呂山町→所沢市のラインがそれを示すことになりそうです。


→ 「続・太田資正の帝国 ~国土地理院のサイトを使って~