太田資正の“帝国”」の地図を、国土地理院サイトでも書いてみました。

国土地理院サイト
http://maps.gsi.go.jp/#5/35.362222/138.731389


1.白地図上で太田資正の“帝国”を描く

太田資正の帝国


川越市の東川三分の一にあたる「古尾谷」も、赤線で描く太田資正の領国に含めてみました。

東京都の北区・足立区の北端部も太田資正の領国に含まれていた、という研究も存在するため、そこも含めてみました。

それ以外は、前稿「太田資正の“帝国”」と同じ考え方で、太田資正の領国に含まれていたと考えられる市・町を選定しています。



2.地形図に切り替えてみる

太田資正の帝国


以前も確認したことですが、地形図で見ると、太田資正の“帝国”が、旧・入間川と元荒川に挟まれた大宮台地に乗っていることが良く分かります。武蔵国において、北条氏の領国は武蔵野台地、太田資正の領国は大宮台地、という関係だったと言えそうです。

北条氏の反撃に対する太田資正の防衛線が、秩父の山々と平野部の接線領域にあたるのも面白いですね。山から攻め込む北条勢、平野から迎え撃つ太田資正勢、という関係が見えてきます。



3.太田資正の帝国の地形図を“引き”で見てみる

太田資正の帝国


こちらも以前にも確認したことですが、太田資正の領国は、武蔵野台地の北条氏が勢力範囲を北に広げようとする時、これ以上ないほど邪魔は広がり方をしています。
永禄4年から7年にかけての北条氏の太田資正への執拗な大攻撃は、やはり地形から見れば必然の行為だったと言えそうです。