さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正の家臣たちの備忘録
その2.舎人孫四郎・野本与次郎 
~資正の窮地を救った若武者二人~

・舎人孫四郎と野本与次郎は、永禄七年の第二次国府台合戦(太田資正が里見義弘らと共に北条氏康・氏政と戦った合戦)で、主君・太田資正が敵に組み伏せられていたところを救った若武者。
(『関八州古戦禄』、『太田家譜』より)

・『太田家譜』の当該場面の記述は、
三楽モ自身苦戦シ数ヶ所疵ヲ被ル敵大将ト見テ馳来テ組ケルガ三楽勇力タリト云トモ痛手有バ組舗シ即ニ首ヲカカレル時敵喉輪ノアルヲ不知シテ掻之故不切、此時三楽喉輪アリハズシ切レト云、敵驚テ是ヲ取ントスル時ニ、郎等舎人孫四郎野本与次郎両人馳来三楽ノ上ニノリタル敵ヲ引ノケ救之、三楽終ニ彼ノ敵ヲ討取也」(現代語私訳は文末に

この時、舎人孫四郎は十九歳、野本与次郎は十八歳。
(『太田家譜』より)

【国府台合戦地形図】
・初戦は、里見・太田連合が、北条勢を国府台城に引き寄せて迎撃、勝利。
・翌日、国府台城の背後を北条別働隊に衝かれ、里見・太田連合は大敗。

国府台合戦


【追記①(2015年2月21日)】
・国府台合戦(永禄七年)以前には、太田資正から義弟・三戸駿河守への使者として野本右近と舎人孫四郎が送られたことも。
三戸文書の永禄五年の太田資正書状から)

同書状の文面は、
御自訴之儀、度々蒙仰候、御屋形(註:謙信)へ申候之処、拙者(註:資正)相計可申之段、被仰出候、如御望之、瀬田谷御一跡可被仰付候、然者静謐之上、屋形御料所一向無之候之条、可然地一所、上御申肝要ニ候、猶野右註:野本右近)幷舎人孫四郎可申入候、恐々謹言」。
上杉謙信の第一次越山(永禄三年~四年)の際に、
占領した瀬田谷の地が義弟・三戸駿河守の支配下に戻ることを告げる内容。資正は使者として野本右近と舎人孫四郎を送ったことを伝えている。(野本右近と野本与次郎は同一人物か?)
野本右近と舎人孫五郎が、資正の使者役を務めるような側近であったことが伺われる。

【追記②(2015年2月21日)】
・江戸時代に編纂された
新編武蔵国風土記稿』には、舎人郷(今日の東京都足立区舎人)が舎人氏(孫四郎も含まれる)所縁の地であることが示されている。

舎人郷と舎人孫四郎


【追記③(2015年3月21日)】
・『太田家譜』の「太田譜代之士」の章にも、「舎人孫四郎」、「野本与次郎」の名が見える。

 -「舎人孫四郎 三楽代太田氏ヲ与テ号隠岐守
 -「野本与次郎 三楽代左穢氏ヲ与テ号宮内少輔
舎人孫四郎、野本与次郎が、太田資正(三楽斎)に重用され、大いに出世したことが伺われる。

<舎人孫四郎・野本与次郎のイメージ>
まだ二十歳前の若武者ふたり。
敵味方とも歴戦の武士・武将が結集した永禄七年の国府台合戦では、若武者同士互いに助け合って戦ったのではないか?
敵に組み臥された主君を助けた、という功績がどちらか一方の武功ではなく、二人の手柄として伝えられているのも、二人の関係の深さを伺わせる。

岩付衆にとっては、大敗を喫した国府台合戦であったが、その中でこの二人の逸話は、大将資正の運の強さと次世代の若武者の登場を示している点で、未来に向けた微かな希望を感じさせるもの。

岩付追放後の資正に従って片野入りした・・・と考えたいところだが、二人のその後は不明。
(資正の岩付追放後の二人の動向は、私の不勉強で不明です。情報を入手し次第、追記したいと思います。)

【追記(2015年2月21日)】

野本右近と野本与次郎が同一人物であれば、永禄五年の三戸駿河守への使者役も、舎人孫四郎と野本与次郎は連れ立っていたことになる。
資正も、舎人孫四郎と野本与次郎を、二人で一人のような扱いをしていたのかもしれない。

 * * *

上記『太田家譜』引用部の現代語訳(私訳):
資正(三楽斎)も苦戦し、数か所傷を負ったところ、「敵の大将だ」と気づいて馳せ寄り、組み付いてきた敵があった。資正は勇力とは言っても痛手を負ったせいで組み伏せられてしまった。しかし、敵はそのまま資正の首を掻き切ろうとしたものの、資正が喉輪をつけていることに気づかず、一向に切れない。資正は「喉輪がある。外してから切れ」と言うと、敵は驚きつつ喉輪を取ろうとした。その時、資正の郎党である舎人孫四郎と野本与次郎が馳せ来て、資正の上に乗った敵を引き剥がし、資正を救った。資正は遂に敵を討ち取ることができた。

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