さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正の家臣たちの備忘録
その3.道祖土図書助
~赤浜原合戦で奮戦した比企郡の野心家小領主~

・比企郡八林郷(現・埼玉県川島町の上八ツ林・下八ツ林)及び三尾谷郷(現・埼玉県川島町三保谷)付近の在地土豪、小領主。
(以下の各種史料より)

【参考】八林郷・三尾谷郷の位置関係い

岩付城と三尾谷郷

・資正の父・資頼の時代から岩付太田氏に服属。
(『岩槻市史 古代・中世史料編2』より)

・弘治三年には、三尾谷の伝馬制に関わる管理を資正から指示されている。
(弘治三年四月八日の太田資正の書状より)
弘治三年四月八日の太田資正書状の内容は、「三尾谷郷伝馬儀付而、田地指上百姓有之由、可及其断、罍儀ハ可為田地役候、謹言 」。

・永禄四年から五年の松山城を巡る北条氏と太田資正の一連の合戦において、石戸城を拠点とした資正の軍事行動を補佐。
・永禄五年七月二十七日に、赤浜原(現・埼玉県寄居町)で、北条氏側の上田朝直の家臣・山田伊賀守を討ち取り、資正から感状を与えられた。
(利根川宇平(2007)「太田資正の時代」、『論集 戦国大名と国集12 岩付太田氏』(岩田書院))

・なお、内田孫四郎も山田伊賀守を討ったとして資正からほぼ同文の感状を受けている。
(武井尚(1990)『小室家文書の中世文書』)

【関連1】
赤浜原合戦の謎 ~敵将・山田伊賀守を討ったのは誰か~

【関連2】赤浜原の位置

赤浜原合戦②


・永録五年七月十六日には、資正から比企郡八林郷の深谷民部(北条側に荷担した土豪か)領と足立郡石戸の内野場を安堵される。
永録五年七月十六年の太田資正書状より)

・永録十年九月に、北条氏から比企郡三尾谷郷及び戸森郷の代官を任命されており、この時点では北条氏に服属していることが分かる。
永録十年九月晦の北条氏書状より)

【追記(2015/3/21)】
・元亀三年の北条氏の着到状から、道祖土図書助が、一騎を含む三人での軍役を義務付けられた小領主であったことが分かる。
元亀三年一月九日の北条氏の道祖土図書助宛着到状から)

着到状本文は以下の通り。
 改定着到之事
廿五貫文 八林之内屋敷分
 此着到
一本 鑓、二間中柄、具足・皮笠
一本 指物侍 同理
一騎 馬上、具足・甲大立物・手蓋・面膀
 以上三人
右着到、分国中何も等申付候、自今以後此書出之処、聊も不可有相違候、於違背者、越度者可為如法度者也、仍如件


・『太田家譜』の「太田譜代之士」の章に「道祖土土佐 子孫河越ニアリ」の記述が見える。道祖土図書助のことか。

・道祖土氏館跡が、今日の埼玉県比企郡川島町八ツ林に残されている。


<道祖土図書のイメージ>
代々比企郡八林郷・三尾谷郷付近を統べた一族。

太田資正にとって、いつかは奪回したい城であった武州松山城。その松山城に最も近い地に勢力を張る者として、地の利を大いに活用し、資正の松山城攻防を支援。資正の歓心を買い、自身は領地拡大に勤しむ。
戦乱を利用し次々領地を広げたところに、野心家のイメージを感じる。

北条氏側の上田朝直の家臣を討ち取る働きをする等、勝負すべき時には果敢に戦うタイプ。

資正が岩付を追放されて以降は、資正に従って常陸国に向かうことはなく、比企郡に留まって北条氏に服属。
しかも、北条氏からはもとの領地を安堵された模様。
この辺りの生き方はしたたか。

君主は代わろうとも、その土地に根を張った自分たちは生き残る。
戦国の世を逞しく生きた土豪と言えるはず。

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