太田資正の家臣・太田下野守の五代前の先祖「高築次郎左衛門」に関する記述。
古河公方・足利義氏が、太田下野守に受領名「下野守」を与えた際の書状と伝えられる文書に記された注記だそうです。

前島康彦(1970)「太田源五郎氏資論」、『論集 戦国大名と国衆12 岩付太田氏』から。

太田下野守高祖父者、高築次郎左衛門ト云フ。代々太田ノ家臣也。永亨九年太田備中ノ守道真令ル上洛時、将軍義教、東武士ノ勇粧可見給之申道真二命。因テ茲二、高築次郎左衛門ヲ為セ鎧、庭上二馳馬長刀振。義教蜜柑ヲ太刀二貫キ賜之。次郎左衛門馬上二口ヲ開キ進ミ寄ル。彼ノ蜜柑口中二指入レ給ヘハ則食之。此時義教因御感武州与野笹目両郷高築拝領ス。彼ノ高築カ孫高築次郎左衛門、道真曽孫太田美濃守道可、太田ノ名字ヲ名乗リ太田次郎左衛門ト云。其子太田下総守云。下総守嫡子下野守也。此下野代マテ右両郷知行シテ、道可嫡子属スル太田美濃守三楽斎者也。

大意は、
(1)太田下野守の五代前の先祖「高築次郎左衛門」は、太田資正の五代前の太田氏当主・太田道真お共に上洛し、将軍・足利義教に謁見した。
(2)その際、高築次郎左衛門は、将軍に武技を見せて称賛を受け、与野郷・笹目郷の領地を拝領した。
(3)高築次郎左衛門の孫の次郎左衛門の代に、太田道真の孫の道可(太田資頼)から太田の名字を名乗ることを許された。
(4)その息子が太田下総守、さらに下総守の息子が太田美濃守資正に仕えた太田下野守である。

五代前荷物遡る、太田家と太田下野守家(高築家)の繋がりを強調する文書です。
将軍足利義教の前での高築次郎左衛門の武技は、少々劇画的で誇張・創作の匂いもしますが、高築家が代々武技で鳴らした家系であったことは、伝わってきます。

五代にも渡って続いた太田家と太田下野守家の繋がりは、しかし、資正の代で終わることになります。
この文書を読むと、資正と下野守の決別の場面が、両者にとって辛いものであったろうと想像され、胸に迫ります。


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