岩槻を太田資正・三楽斎の街として盛り上げるべし、という私の意見(岩槻を太田資正・三楽斎の街に)ですが、実は大きな壁が立ちはだかっています。

一つ目の大きな壁は、資正の曾祖父・太田道灌の存在です。
岩槻という街は、江戸時代から「岩槻城は天下の名将・太田道灌が築城した」ことを誇りにしてきました。
太田道灌が築城したのは、江戸城、川越城、岩槻城。この三城は兄弟なのだ、という言い方が好んでなされ、近代以降も、昭和の頃までそれは変わりませんでした。

関東無双の名将・太田道灌こそが岩槻ゆかりの武将なのだ、という誇りが邪魔し、よりマイナーな曾孫・太田資正(三楽斎)のことなど、眼中に入りすらしない。極論すれば、岩槻の資正に対する見方は、そのようなものだったのです。

なぜそれほどまでに太田道灌が有名だったかと言えば、それは、徳川家康のせいです。
江戸に入った徳川家康は、
・徳川家の政庁を置いた江戸という土地を権威あるものにしなければなりませんでした。
・また、善政を敷いたことで領民から敬愛され続けた前統治者・北条氏のイメージを打ち消すことも必要でした。

そんな家康に都合がよかったのが、太田道灌です。
天下無双の名将・太田道灌は、浪人あがりの北条氏より格式も高く、高貴な精神でず関東の静謐を守っていた。
居城は、江戸に置かれた。

そのストーリーは、江戸幕府にとってとても都合がよいものだったのです。

しかし、今日の岩槻が、かつてのように太田道灌にこだわることには、二つの問題があります。

1つは、もはや太田道灌にさほど魅力がないことです。

江戸幕府による持ち上げ工作も、戦前まではその残り香があったようですが、さすがに平成の世では消え失せようとしています。
武田信玄、上杉謙信、織田信長は知っていても、太田道灌は知らないという人は、ゴマンといる時代。太田道灌はもはやブランドではありません。再評価することで魅力が増せばよいのですか、残念ながら、そうはならないと私は考えています。

というのも、太田道灌という人は、戦はバカ強く、まさに関東無双・天下無双なのですが、ドラマ・小説の主人公にするには、あまりにも面白くない人物でなのです。
立場は守旧派であり、新しい時代の流れを受けて起こった乱を次々に鎮圧した無敵の武将。頭はいいが、それを自ら誇り、傲慢な振る舞いがあった。そう伺わせると逸話が多く残されています。最後は、尽くしたはずの主君に裏切られて暗殺されますが、どうも一次史料にあたると、己に劣る主君を下に見ていたようです。

こうした人物ですから、小説・ドラマの題材には、昔からあまりなっていません。
伊東潤が『叛鬼』という小説で、主人公・長尾景春の前に立ちはだかる巨大な山のような存在として太田道灌を描いていますが、道灌を魅力的に描くにはあの手法以外無いのかもしれません。

叛鬼 (講談社文庫)/講談社
¥756 Amazon.co.jp


きつい言い方をすれば、太田道灌の魅力は、江戸幕府が作り上げた虚像の魅力であり、人物その人の魅力ではないのです。
江戸幕府が作り上げた虚像の影響力が今後さらに薄れていくことを考えれば、岩槻が太田道灌とのゆかりに拘るのは、あまり賢い手とは思えません。


2つ目の問題は、岩槻城・太田道灌築城説が、現在の史学界ではほぼ否定されてしまったことです。

北条氏や岩付太田氏に関する素晴らしい研究で知られる黒田基樹が名をあげたのは、岩槻城の築城者を太田道灌やその父・道真とする永年の伝承を、一次史料によって覆した研究でした。

黒田氏が唱えた「岩槻城成田氏築城説」は、学界では既に定説扱いです。
岩槻の郷土史家(小宮勝男氏)が反論を試みていますが、残念ながら、相手にされていません。
私個人的は、小宮勝男氏の説には七割くらい賛同し、岩槻城・太田道真築城説を支持していますが、学界での劣勢は我々にはどうしようもありません。
(参考:『岩槻城は誰が築いたか』を読む 前編中編後編

黒田基樹氏は、今日の日本中世史・戦国史研究の世界で、確固たる地位を確立した研究者。
斯界の雄が唱えた新説は、既に定説になり、市や県の役人にも絶大な影響力を発揮しました。今日、。岩槻城の説明資料にはかならず「成田氏築城説」が書かれるようになりました。太田道灌の父・道真による築城説は、よくて「従来説」、悪ければ「否定された通説」扱いです。

太田道灌の町・岩槻、というキャッチフレーズは、もはや胸を張って掲げることができない状態なのです。

※ ※ ※

まとめれば、こうなります。

岩槻を太田資正・三楽斎の街とするのを邪魔していた、名将・太田道灌は、
①既にかつての知名度は無く、
②再評価しようにも、調べれば調べるほどあまり魅力のある人間ではないことが、わかり(ここは主観ですが(笑))、
③しかも、岩槻城との関わりすら、もはや定かではなくなってしまった。

新参者の私には、岩槻が太田道灌に拘る必要など何も無いのでは、と思えてしまう、そんな状態です。

対して太田資正は、
①岩槻との関わりが確実で、
②生き方も魅力的で(ここは主観ですが(笑))、
③その上、戦国時代のスーパースターである上杉謙信・豊臣秀吉・直江兼続らとも絡み、逸話を残している、
という“美味しい”人物です。

もはや、岩槻は、太田道灌への未練を捨て、太田資正という近年輝きを増した準スターに、街のシンボルの座を移すべきタイミングに来ている。
そう私は思います。

しかし、街の方と話をすると、六十代以上の方々は未だに太田道灌ブランドへの未練が強いですね。
「道灌の町・岩槻」を刷り込まれ続けてきたため、「道灌はもう知名度ないですよ」「今の定説では岩槻城と太田道灌の関わりはほぼ否定さていますね」と話しても、やはり道灌、です。

世代交代を待つしか無いのかもしれません。

ぐだぐだ書いていたら、長くなりました。
岩槻が太田資正・三楽斎の街になるのを妨げたもう1つの壁については、次稿に。
先に種明かしだけしてこまうと、私はそれを資正の嫡男・太田氏資の存在だと考えています。