太田資正の三男・太田資武が、父の所業を書き残した書状『太田資武状』。

江戸時代初期に書かれたこの書状には、武州岩付城(岩槻城)を巡って、北条氏康と太田資正の間に攻防戦があったことが記されています。

岩付之城属氏康手ニ候儀は、兄ニ候源五郎、親を楯出申後之儀ニ御座候、三楽岩付ニ在之内も、氏康以猛勢被攻候得共、城堅固ニ持、寄手幾許被討及難儀申ニ付而、従氏康、大道寺駿河と申人、未若輩之砌、城中へ被投籠懇望之間、不及是非、取懸候人数為挙申由候、此段之事多儀ニ候条、筆紙ニ者不被申上候事

大意は、
・岩付城(岩槻城)が、北条氏康に属するようになったのは、兄・源五郎(太田氏資)が父を追放した後のこと。
・それまでは、氏康が猛勢を以て岩付城を攻めても、父・三楽斎は城を固く守り、むしろ攻め手に甚大な被害が出る有り様だった。
・氏康はこれを受けて、家臣・大道寺駿河に命じて調略を行わせ、岩付城を内部から切り崩すことにした、
といったところでしょうか。
(大道寺駿河が登場して以降の文章が、私の古文読解力では、少し心許ないところですが・・・)

この『太田資武状』の一節は、古来、天文十六年(1547年)に資正が岩付城に入城してから、永録七年(1564年)に追放されるまでの17年の間に、散発的に行われた氏康の岩付城攻めを語ったものだと解釈されてきました。

しかし、近代の一次史料研究は、太田資正が天文十七年(1548年)から永録三年(1560年)まで北条氏に服属していたことを明らかにしました。

すると、「氏康以猛勢被攻候得共」という氏康による岩付城攻撃の年代は、より期間が絞られることになります。

長尾景虎(上杉謙信)が北関東の諸領主を従え、大軍を以て小田原を攻めた永録三年秋~永録四年春の第一次越山の時期は北条氏が防戦一方だった時期。岩付城を攻めるのは不可能です。
また、反転攻勢に入った永録四年夏以降も、北条氏は勝沼三田氏(東京都青梅市)や花園藤田氏(埼玉県秩父市・長瀞町・寄居町)の鎮圧や、資正が奪取した松山城(埼玉県吉見町)攻撃に忙しく、それらが落ち着く永録四年末までは、岩付城まで手を伸ばす余裕はなかったはずです。

岩付城(岩槻城)攻撃の可能性が考えられるのは、
①北条氏が岩付領の各地をゲリラ的に攻撃し始めた永録五年年初~春
②北条氏が松山城を落とし、再度岩付領に対して直接圧力をかけるようになった永録六年夏~冬
でしょうか。

永録五年夏~冬は北条氏が松山城攻撃に全勢力を傾けていましたし、永録七年以降は資正は国府台合戦の大敗でもはや北条氏の攻撃を撃退する力を失っています。

北条氏が岩付城攻撃を行う余裕があり、また資正側に撃退の千からが残されていたのは、上記の①②となりそうです。

ただし、①②いずれも、一次史料面でのサポートにやや弱さがあります。

特に①の期間は、氷川女體神社の真読識言という貴重な一次史料がありますが、この史料が伝えるのは氏康の足立郡への攻撃のみ。それ自体が、岩付城のある崎西郡にはまだ攻撃が及んでいなかったことの一瞬の反証になっています。

②の期間は、西の要害・松山城を失った資正が、いよいよ北条氏の圧力に父を晒される時期。岩付城が北条勢によって攻撃された時期として相応しいのですが、残念なことにその直接の証となる一次史料がありません。

この期間の出来事として一次史料から確認されるのは、
・永録六年秋~冬頃に、資正が房総里見氏から兵糧を調達しようしたが、価格が折り合わず断念したこと、
・資正の兵糧調達失敗を知った江戸衆と小金城の高城氏が、今こそ好機と氏康に岩付城攻めを促したこと、
・氏康が、兵糧は三日分で十分なので、急いで岩付城攻めの準備を整えよ、と配下に指示したこと、
です。

岩付城総攻撃に向けて形勢が大きく動いた当時の様子が伝わってきますが、この総攻撃が実際に行われたのかは、定かではありません。
というのも、「岩付城での籠城は不利」と悟った資正は、一転岩付城を後にして下総国・国府台に進軍。そこで房総里見と合流して江戸を攻める策に出たためです。
北条氏も攻撃対象を岩付城から国府台城に切り替え、ここにかの有名な国府台合戦(第二次)が行われることになります。

岩付城総攻撃は行われ、資正はそれを撃退しつつ国府台へ進軍したのか。
岩付城総攻撃は行われなかったが、その前に散発的な岩付城攻めは行われていたのか。
現在残る一次史料からは、その辺りの経緯の詳細は不明です。

しかし、岩付城を捨てて国府台合戦に賭けざるを得ない程に資正が追い込まれていたことを考えると、総攻撃指令の以前から散発的な岩付城攻撃はあったと考えたのが、自然ではないでしょうか。

敵の攻撃を個別撃退しつつも、徐々に押されていた状況があってこそ、資正の逆転の大博打である国府台合戦が理解しやすくなるというもの。

ということで、私としては、以下のように結論付けたいと思います。
・『太田資武状』が書き記した、北条氏康による岩付城(岩槻城)攻撃とその撃退は、永録六年夏~冬の出来事であった。
・しかしそれは、『太田資武状』が描くような華々しい戦果を挙げた戦いではなく、勝てども徐々に押されていくじり貧の防衛戦であった。

この時のじり貧の奮戦を、資正は「それでも儂は、氏康に岩付城を攻め落とさせはしなかったのだ」と語り、三男・資武はそれを誇らしく思い、『太田資武状』に書き残した。
私は、そんな情景を思い浮かべます。

【追記 2015/8/6】
以前考察した「加倉畷の合戦」も、こうしたジリ貧の防衛戦の一つだったと考えるのが、妥当なのかもしれません。