さいたま市中央図書館で借りた『国府台合戦を点検する』(千野原靖方(1999年))を読んでいます。

国府台合戦を点検する/崙書房出版
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千野原氏は、房総を中心とした中世東国史を研究する専門家。国府台付近の地勢や、里見家関係の一次史料に関する造形が深く、読んでいて圧倒されます。

私は、太田資正の視点から、永禄四年~七年の上杉謙信と関東味方衆の北条氏との抗争を追ってきました。しかし、が見氏の視点からはまた、違った見方ができるのが、興味深いですね。

例えば、資正の視点からは、助けに頼む謙信や里見の連携の遅れが気になります、しかし、実際に動く里見からすれば、謙信の要請を受けて、相当な労力を払って資正を支援していたことが見えてきます。

永禄五年末から六年二月の松山城合戦の際も、房総から援軍に出た里見氏は、これを阻止しようとする北条氏と国府台で衝突して勝利します。しかもその後、謙信に合流し、資正とともに上野国厩橋(現在の前橋)まで共に進軍しています。

江戸湾の海軍力を強みとする房総半島の里見氏が、謙信との連携のために内陸まで奥深く兵を進めていた。この事実には驚かされます。

永禄七年の国府台合戦も、私は資正の視点から、里見・太田連合対北条氏の合戦と見ました。
もちろん誤りではありませんが、
①兵力の大半が里見氏側であり、②里見氏が前年から一年間に渡り国府台城に滞在したことが前提となっておこった合戦であったことを考えれば、やはりあの合戦は、里見と北条の南関東の覇権を賭けた決戦だったらと見た方が実態に近いでしょう。


さて、肝心の国府台合戦ですが、一次史料に基づく千野原氏の論考を辿っていくと、「国府台合戦 永禄六年・七年二回説」はどうやら間違い無さそうです。

一回目は、永禄六年正月。
松山城合戦に援軍として駆け付ける途中で、国府台で北条氏と激突した一戦です。北条側・江戸衆の指導者である遠山氏・富永氏はこの時討ち取られたようです。
従来、永禄七年正月六日に、国府台合戦一日目とされてきたこの戦いですが、千野原氏は、北条氏康の感状が、永禄六年に出されていることを指摘します。確かに、一回目の国府台合戦は、永禄六年年初に置くのが適切です。

二月目は、永禄七年二月。
太田資正も合流して行われたこの合戦は、従来、国府台合戦二日目とされ、正月に行われた合戦だとされてきました。
しかし、野原氏は、二月に始まり一ヶ月間に渡る攻防戦だったと論じます。千野原氏の主張の根拠は、やはり氏康の感状の発行時期。合戦後、十日以内に感状を出す氏康が、この時は二月に感状を出しているそうです。

要害国府台城に籠る里見・太田連合が初日勝利直後の夜襲で崩壊したとする従来説に体して、一ヶ月に渡る攻防戦の末に、最後は奇襲で決着が着いたとする千野原説。後者の方が、現実的です。

江戸時代の軍記物が揃って描く「国府台合戦 永禄七年正月二日間説」は、なるほど千野原氏の言う通り、永禄六年・七年二回の合戦を誤って伝えたものと考えて良さそうですね。

国府台合戦のイメージ、ちょっと変わってきますね。