※ もとは6月30日のエントリーでしたが、図版を追加したのをきっかけに7月5日のエントリー扱いにしました。

禍(わざわい)だと思われたものが、結果的には福をもたらすことになる。

人間万事塞翁が馬の故事で語られるこの教え。その身近な体現者は、負け続けながらも再起して生き抜いた戦国武将、我らが太田資正かもしれません。

こう思い至り、本稿を書き始めました。


1.太田資正を襲った禍(わざわい)

武州岩付(今日のさいたま市岩槻区)の戦国武将・太田資正が最も輝いた時代と言えば、それは資正が越後の上杉謙信と組み、小田原北条氏と真っ向正面から戦った永禄三年から七年の五年間だと言えるでしょう。

北条氏の数分の一の所領しか持たない中規模の戦国領主(国衆)であった太田資正。上杉謙信の支えがあったと言っても、あの天下の大大名を向こうに回して一時は互角に戦ったのですから、大したものだと思います。

【北条氏領国と太田資正の岩付領の大小関係(永禄五年頃)】

北条氏領国と太田資正の岩付領

北条氏領国と太田資正の岩付領


しかし、この五年間の資正の奮戦は、突然の禍(わざわい)によって幕を閉じます。その禍とは、息子氏資の裏切りでした。

北条氏の勢力を挙げた反撃の前に、永禄六年以降の資正は、明らかに劣勢に追い込まれていました。
北条氏領国から奪った松山城・葛西城という要所を奪い返された資正は、“本土”岩付領の防衛で手一杯の状況に追い詰められていました。加えて、起死回生の大博打であった国府台での合戦でも、大敗。資正が北条氏の攻勢を抑えきる見込みは、ほぼ失われたのです。

これを見た、資正の嫡男氏資。彼は、もはや父の反北条路線は続けられない、太田家を残すためには、北条氏に従属するしかないと、判断します。そして、父を岩付(岩槻)から追放したのです。
資正が、下野国・宇都宮氏に援軍を要請するため数十騎で北に向かった留守を狙った、クーデターでした。  

息子に裏切られた資正は、その後三度にわたり岩付城奪還を試みますが、いずれも失敗します。
関東の反北条勢の筆頭であった太田資正は、一夜で領国を持たぬ一牢人(浪人)に落ちぶれたのです。

資正は、戦国時代の武将として、これ以上無いくらいの大きな禍に襲われたと言えます。


2.岩付追放の無かりせば

しかし、悲劇(あるいは喜劇)として語られることの多い資正の岩付追放ですが、それは、本当に禍だったのか。そう考えてみるのが、本稿の試みです。

結論から言えば、岩付追放は、むしろ資正に福をもたらした事件だったのではないか。今の私は考えています。

この結論は、逆に考えることから得られます。もしも、永禄七年七月の追放劇が無かったら、資正はどうなっていたのか、と考えるのです。

永禄七年七月の時点で、資正は、房総の里見氏と組んで戦った国府台合戦に大敗し、自身の兵力の多くを失っていました。北条氏領国に突き出た攻守の要害たる松山城・葛西城は、既にその前年や前々年に奪い返されています。ただでさえ、北条氏との兵力の圧倒的な量の差に苦しんでいた資正は、抗争を始めた当初より、さらに不利な状況で、北条氏との本土決戦を行わねばなりませんでした。

もはや資正と岩付領の力だけではどうにもならない状況に追い込まれていたからこそ、資正は、周辺領主に自ら援軍を頼みに回ったのでしょう。
しかし、この状況で、宇都宮氏等の反北条領主らは、資正に援軍を出すことが出来たか。仮に出せたとして、北条氏と戦って岩付領を防衛することが出来たか。仮に一度や二度は北条氏を撃退できたとして、その状況を恒常的に保つことが出来たか。

これらの問いへの答えは、すべてノーだったはずです。

「資正が倒れれば次は我が身」と、資正を支えようと周辺領主が戦った事例は、既にありました。
直近に大敗した国府台合戦が、まさにそれてす。 房州・総州の二国を持つ里見氏が資正を救うべく、北条氏と激突したのが永禄七年の国府台合戦です。その結果が、里見・太田連合の目も当てられぬ程の大敗だったことを、関東の領主達は知っています。

上杉謙信を除けば、反北条側の最大勢力であった里見氏でさえ破れたのであれば、より小規模な北関東の領主らが、勝ち目ありと考えるのは無理です。

援軍が得られなければ、岩付領は北条氏の攻勢を止めることはできません。早晩、岩付城は包囲され、資正は討死するか、自身の自害を条件に降服する他無かったはず。(資正は、謙信と結んで反北条の乱を起こした張本人。降服しても助命は受け入れられ無かったでしょう)

北条氏の領国と長い国境を共有し、その各所において攻撃にさらされることになった永禄七年。岩付領は、まさに死地でした。

息子による追放劇が無ければ、資正は、この死地で命を落としていた可能性が多分にあります。

換言すれば、資正は、岩付追放という悲劇によって、実は救われたと見ることができるのです。


3.岩付追放がもたらした福

息子による岩付領追放により、資正は、領国を持たぬ牢人(浪人)になります。佐竹義重の誘いを受けて常陸国片野に入るまでの二年半、関東各地の味方を頼り放浪した資正は、失意と屈辱の日々を送ったことでしょう。

しかし、岩付追放という禍は、資正に、さまざまな福をもたらします。

①圧力からの解放
北条氏領国に向かう最前線である岩付から追放されたことで、資正は、大大名・北条氏の巨大な圧力から解放されました。

北条氏と反北条勢の勢力拮抗線は、岩付から関宿に移り、宇都宮や忍を頼った資正は、最前線からひとまず逃れることができたのです。


②片野で得る新たな視座と役割

故国・岩付を追われ、その奪還に失敗した資正は、佐竹義重の誘いを受け、新天地・片野(茨城県石岡市)に入り、再起を図ることになります。

片野は、筑波山の東側の土地。
北条氏の領国と接し、その圧力を全面で受け止めなければならなかった岩付領と比べれば、“前線”から遠く離れた地でした。

この地で資正がまず取り組んだことは、北条方の地域領主であり、恩ある佐竹義重の敵であった隣国の主・小田氏治との抗争でした。
北条氏が、謙信勢との覇権戦争を繰り広げる中、資正は一時、関東戦国史の表舞台から姿を消すことになります。資正が表舞台に返り咲くのは、片野に入った永禄九年の三年後。小田氏をほぼ制圧した永禄十二年のことです。

しかし、この片野の地理環境が、資正に岩付時代には無かった視座と役割を与えます。

この当時、北条氏と反北条の合戦の主な舞台は、武蔵国から上野国・下野国・下総国北部に向かう進路。特に、下総国北部にあり、利根川の水運を押さえる要所であった関宿は、激しい抗争地になっていました。

【片野時代の太田資正(三楽斎)の視点】

岩槻追放後の太田資正(三楽斎)の視点


奥地である片野にいた資正は、この抗争には直接的には巻き込まれませんでした。しかし、反北条の味方衆の危機を救うべく、資正は謙信に援軍を頼む等の外交に取り組みます。謙信と結んで北条氏と真正面からの戦いを演じた資正は、関東のどの領主よりも、謙信と深い結び付きを有することになっていました。
謙信と連携するならば資正を介して、という地位を、資正は得ていたのです。

この資正の地位は、資正が“前線”から離れた片野にいたことによって、独自の凄みを持つことになります。

北条・反北条の抗争の現場からやや離れた地にあり、自身の安全保障に汲汲とする必要の必要のなくなった資正は、そこから広い視野で外交戦を仕掛けていくようになるのです。


③開花する外交戦略家の才

資正が展開した外交は、いずれもスケールの大きいものでした。
片野に入ってまもなくは、岩付時代からの関係を活用し、越後の謙信と関東勢の連携を仲介します。
謙信が北条氏との同盟を画策し、関東味方衆の信を失うと、資正は関東勢を代表して謙信に苦言する役割を演じ、そこで得た求心力を生かし、佐竹義重を中核とした“御一統”の形勢に大きな貢献を果たします。

資正の外交戦略家の才が最も発揮されたのは、謙信死後の武田(勝頼)・上杉(景勝)・佐竹・宇都宮同盟の形勢でしょう。
北条氏を三方から攻める包囲網となったこの同盟関係は、資正が仲介したことで成立したものです。

武田勝頼が滅亡し、この包囲網が崩壊すると、すかさず天下人・織田信長との外交に着手します。信長家臣団の中でも取り分け秀吉を選んで連携を図ったことは、後の小田原征伐の伏線になっていきました。
・信長死後の豊臣秀吉との外交

資正がこれだけの外交を展開できたのは、
目の前の合戦に汲汲とせざるを得なかった筑波山以西の戦国領主らと異なり、資正が当座の危機に晒されにくい片野にいたからでしょう。

近代アメリカの外交戦略を構築したストラテジスト・ブレジンスキーは、“世界島”たるユーラシア大陸を“巨大なるチェス盤(グランドチェスボード)”と呼び、アメリカの強みを、このチェス盤の外からゲーム参加できる点だと論じました。

同じことが、片野時代の資正にも言えそうな気がします。

関東を“チェス盤”に例えるならば、その中心地は、相模国・武蔵国・下総国・上野国・下野国が成す巨大な平野部でしょう。
常陸国も、この平野部と繋がってはいますが、筑波山と連なる山地によってある程度離れた地域となっています。

アメリカが、外から世界島たるユーラシアのチェス盤でゲームを展開したように、資正は、筑波山の東にいたからこそ、筑波山以西の関東平野や甲斐・信濃、さらには上方を一望して彼岸の眼で将棋を指すことができたのでらないでしょうか。


④岩付時代の蓄積も武器に

もっとも、資正の外交面での活躍は、彼が片野にいただけで保証されたものではなかったはずです。
小身の田舎武将が、大大名らの間に入って同盟を仲介することは、普通ならばできません。仮に文を飛ばしたとして、普通はどれ程の効果があったか。

資正の外交が力を持ったのは、彼が前半生の岩付時代に、北条氏を相手に誰よりも果敢に戦った実績を築いていたためでしょう。

小ながら大に対して立ち向かい、劣勢になるとも決して降服せず、起死回生の博打を打った勝負師。裏切らず、屈せず、少しの光明でもあれば、そこに勝機を見出だそうとした太田資正。そんな岩付領主時代の生き方が、一瞬の“資正ブランド”を生み出していたのだと、私は見ています。
そのブランドを持った資正が、片野から関東を変見渡したからこそ、「片野の三楽」の活躍は成ったに違いありません。


4.岩付追放によって完成した資正の生涯

最前線で果敢に戦った前半生と、やや後方に下がりスケールの大きな外交戦を展開した後半生。それは、前半生あっての後半生でした。資正が、普通に岩付の武将であり続けたら、それは実現しないものでした。資正は、初めから片野に生まれたとしても同様です。

資正は、岩付領主として大暴れした時代があり、息子によって追放されて片野に流れ着いたからこそ、華々しき前半生といぶし銀の後半生を送ることができたと言えるはずです。

太田資正という男の人生をその全体で考えた時、岩付追放という禍は、むしろ福であったと断じたくなるのは、このためです。

もちろん、資正という人に秀でた男が、禍にめげずに再起したこらこそ開けた幸運を、ただ福と呼ぶのは安易かもしれません。

しかし、そうした不屈の精神があれば、禍は福に転じ得るるのだと言い換えれば、資正も認めてくれるのではないか。

そう私は思います。