さいたま市岩槻の戦国武将・太田資正が、小田原北条氏との間で繰り広げた武州松山城を巡る攻防戦は、戦国関東の合戦譚の華。江戸時代の軍記物でも繰り返し描かれてきました。

しかし、この松山城合戦は、何度も繰り返された戦いだったため、江戸期の軍記物においても、年号や順番に混乱や狂いが散見されます。軍記物ではありませんが、太田資正の三男・太田資武が書き残した『太田資武状』も同様です。

本稿では、『太田資武状』における松山城合戦の記述を辿りながら、戦後の一次史料研究によって明らかにされた同合戦の経緯と対応させていきたいと思います。


1.一次史料に基づく松山城合戦の顛末

ちなみに、一次史料研究を踏まえて現在定説となっている一連の松山城合戦(太田資正が関わったもの)の流れは以下の通りです。(参考にしたのは、黒田基樹編『論集戦国大名と国集12 岩付太田氏』)
 

論集戦国大名と国衆 12 岩付太田氏/岩田書院
¥4,320
Amazon.co.jp


①天文十五年四月
河越合戦で大敗した関東管領側の武将だった太田資正が、義父の居城だった松山城に退避するも、籠城は困難と見て更に北に逃走する。

②天文十五年八月
上野国高林(太田市)に蟹居していた太田資正が、北条側の城となっていた松山城を強襲・奪還する。以降一年間、資正は松山城に在城する。

③天文十六年十二月
太田資正が、岩付城主である兄資顕の病死を受けて同城に打ち入りを掛けた際、留守を預けた上田朝直(闇礫斎)が謀叛。松山城を北条氏に明け渡し、その功績で松山城を与えられる。

④永禄四年六月
上杉謙信の第一次越山(関東遠征)に従った太田資正が、遠征の最終局面で、上田朝直が守る松山城を攻略。謙信から松山城領有を認められる。資正は、主筋に当たる扇谷上杉氏の生き残りである七沢七郎を城主に据える。

⑤永禄四年十月
反転攻勢を開始した北条氏による松山城攻撃。北条氏は、氏康・氏政が出陣し、百日に渡る攻防を繰り広げたが、最終的には同城を落とせず退却する。

⑥永禄五年十月~六年二月
北条氏が、武田信玄の加勢を得て、総勢五万騎超の大軍で松山城を攻撃。松山城に籠った資正家臣らの活躍が目覚ましく、北条・武田勢は大いに苦戦。太田資正が上杉謙信に後詰め(救援)を依頼し、謙信も応えて関東に出陣したこともあり、一時は北条・武田対上杉謙信の決戦の気運が高まったが、最終的には、謙信到着前に松山城が陥落して終結。
以降、資正は防衛の要所を失ったことで、岩付領を保持する力を失い、息子の裏切りもあり、岩付領を追われる。松山城を奪還することは無かった。
『北条記』『甲陽軍鑑』『関八州古戦録』等で詳述されたのはこの合戦。


2.太田資武状の松山城合戦

一、武州松山城之事、三楽斎手ニ入候義は、度々之由候、一度ハ謙信北条ヲ為退治、関東発向、房州里見義弘家老正木大膳と拙者親三楽両人、致先手、小田原之城四ツ門蓮池迄押詰、坐城計致シ、関八州門大形属謙信ニ候時、松山之城依有由緒、従謙信親候者ニ給候、

資正が松山城を手に入れた経緯を述べた部分。上記④に相当します。
資武状の書きぶりでは、資正が小田原城攻めの先陣を務めた功績を認められ、謙信から松山城を与えられた、と読めます。
松山城を攻略したのは資正だったのか(攻略後に領有を謙信から認められたのか)、謙信勢が攻め落として資正に与えたのか。その点は不明です。

然は河越之城ニは、箱根之源南并北条上総、為武主被籠置旨、扇谷管領方之大名共数輩令談合、天文拾四年乙巳九月ヨリ河越へ押寄、翌年四月迄取こめ候処ニ、為後巻、氏康河越え出馬、寄手還而前後ヨリ被取包、日々夜々ノ戦無滞中、親ニ候は、鑓ヲ為合候義及廿四度ニ由申候、 雖然四月廿日合戦、管領方敗北、親ニ候者も手前之人数悉討死、漸々主従九騎ニ罷成、松山へ立帰候へ共、城依難堅メ自焼仕、上野国新田へ取除、高林と申所ニ蟹居、

資正と松山城との縁を語っている部分。
十年以上昔の河越合戦の頃に話が飛んでいます。上述の①に相当します。

其時分芳賀伊予と申人、北条家無双之勇者、又果報伊美敷者成故、氏康手ニ被入候城々ヘハ、先彼伊与を被移申由候、然間松山ノ城へも、芳賀伊予守ニ随一ノ者共余多指添被籠置候之処ニ、同年八月廿八日之夜、親ニ以忍入、彼城を乗取、或者追落、終ニハ遂本望、在々所々掟等平均ニ申付、二度松山ニ令在城処ニ

河越合戦の後、再起した資正が松山城を奪還した戦いについて記述しています。
上述②に該当します。
資正が倒した松山城主・芳賀伊予守が「北条家無双之勇者」とされているのは、父の功績を強調したい資武の誇張表現かもしれません。

三楽斎兄ニ候信濃守、於岩付ニ病死、実子依無之、彼地え親ニ候者打入候砌、扇谷管領之舎弟七沢七郎、奥州辺ニ流牢候を尋出取引、彼七郎を取立、岩付よりよき者弐百騎付、松山之城主ニ仕候処、

河越合戦後の松山城奪還。その翌年(天文十六年)、資正は岩付城に打ち入りした留守を衝かれ、松山城を奪われます。
上記③の記述のはずですが、上記④の永禄四年の松山城再奪還の際に同城城主となった七沢七郎が登場しています。
太田資武は、③と④を混同していたようです。また、この段階での松山城喪失は無かったと認識しているようです。

信玄氏康有出張、被責候砌ハ、親岩付ニ在之謙信之後詰を相待候へ共、謙信岩付へ着馬遅うて、松山之城を明渡シ申由候、岩付ヨリ松山へ之通路罷成間敷事を、親兼而存、岩付之犬を松山預ケ置、松山之犬を岩付ニ繋置候儀者、其時之事ニ御座候、

最も有名な永禄五年秋~翌六年二月の松山城合戦(上記⑥)の記述です。有名な“犬の入替え”のエピソードも紹介されています。
資武は、父が北条氏を撃退した永禄四年秋の合戦(上記⑤)は、省略してしまっています。

其後も又彼城三楽手ニ入候由候へ共、年号月日失念仕候、其節松山ノ城ニ上田闇礫斎を為留守居頼置候処ニ、無其甲斐、松山之城を氏康へ相渡候、以其忠節、上田一跡ヲ過半闇礫斎ニ給由候、彼闇礫斎ハ氏康氏政為蒙厚恩人之間、北条を背申義無之由候条、或ハ松山之城を被攻、或ハ追討之沙汰無御座かと承及候、右之段々是又紙面ニ難申尽候事

永禄六年の松山城陥落以降の話として、それより遥か以前の天文十六年の松山城喪失の顛末(上田朝直(闇礫斎)の裏切り、上記③)が登場します。
資武の記述が、かなり混乱していることがわかります。

※ ※ ※

父・資正から直接話を聞いたはずの太田資武ですが、松山城合戦の時系列についはかなり混乱していることが、よくわかります。
資武は、資正が岩付を追われ、常陸国片野に入ってから生まれた三男。物心ついて父から松山城合戦の話を聞いた頃には、二十年三十年前の昔話を聞いたことになります。 こうした混乱があるのは仕方ないことでしょう。

上記②の合戦等、太田資武状にしか無い情報(しかも他の一次史料と整合)も存在します。資武状の史料価値は揺るぎません。
父から直接話を聞いた息子ですら時系列が混乱する程、松山城合戦は頻繁に繰り返し行われたのだ、と見るべきでしょう。