男の子が大人になろうとするタイミングは、種々ありますが、ひとつの重要なきっかけは母親のべたべたの愛です。
「大きくならないで」
「いつまでも赤ちゃんの時のようでいて」
という母親の想いが、時にべたべたの愛となり男の子を包みます。
男の子は、その愛に癒されながらも、でも恥ずかしくなります。
こんなのみっともない!
甘えておいた癖に、甘えた自分が恥ずかしくなり、少し母親を避けつつ、大人になろうとし始めます。
我が家の問題は、この環境が無いこと。
残念ながら、妻には、この溢れだすべたべたの愛はありません。
むしろ甘えようして近づき、気づかれて恥ずかしくなって隠れる息子の奇行に、“大丈夫なの?”と不安になり、“きちんとしつけをしなければ”と躾にアクセルがかかります。
男らしさの大切さと躾の重要性を語る妻に、「もう小学四年生だしな」と、同意する私がいました。
しかし、これが問題を生じさせています。
存分に甘えてから、恥ずかしくなって母を避けるのが男の子の成長なのです。その出発点には、存分の甘えがあるのです。
この甘えが無い状態で、パリッとしろ、男らしくしろと言われ続け、そうしないと温かく迎え入れてもらえない息子は、北風の前にコートを固く羽織った絵本の男と同じ状態に追い込まれていたのです。
男らしくしないと温かく迎え入れてもらえない。つまり、愛は無条件ではなく、条件付き。そして、甘えることなく男らしく振る舞うならば、もはやそこに甘えるチャンスは一時もないのです。
これでは、おかしくなるのも当然です。
朝の過ごし方も、問題です。
妻は、誰よりも早起きし、家族のお弁当を作り、夕食の下ごしらえをします。
そして、一仕事終えてシャワーを浴び、部屋で出勤の準備をします。
息子が起きてくるのは、このシャワーの時間。
息子は、朝起きて“母親”にほとんど会わないのです。
朝御飯は、自分でパンを焼いて食べます。
妻は、「朝御飯ってそういうものでしょ。お弁当と晩御飯に愛情を込めているからいいじゃない?」
ただ、息子からはそうは見えないのです。
自分の部屋に籠って出てこない“母”。
テーブルに置かれたパンの袋。
私もバタバタしているので、ひとりでパンを取り出し、焼いて食べます。
愛情を込めたお弁当と晩御飯は、躾の意味も込めて、嫌いなものだらけの息子に忖度せず、いろいろな材料が入っています。美味しいし、健康にいい食事。
しかし、嫌いな材料が入った料理を見た息子は硬直し、いやいや食べることで、両親から叱られます。
そこには、愛を感じる機会が無いのです。
「朝御飯はそんなものだし、嫌いな食べ物を食べろと言われて親に怒られるなんて、当たり前でしょ。そんな風にあの子の気持ちを先読て、共感しているから、人に共感をもとめてあまえるばかりになってしまうんじゃない?」と妻。
「愛って、そんな薄っぺらなものじゃない。愛が無かったら、私はなぜ誰よりも早く起きて、バランスを考えて食事を作っているの?」
それはその通り。
しかし、違う面もある。
君が育った家庭には、子どもがいつまでも子どもらしくいて欲しいと思う、べたべたの愛を以て接してくる母親がいた。だから成立したことなんだ。
べたべたの愛があって成立した家庭の姿を、それが無い状況で反復してもうまくはいかない。
べたべたの愛がない以上、やり方を変えなければいけないのだ。
ただし、妻は、妻の考える形で愛をしてしている。これ以上何かしろと頼めば、ノイローゼになってしまうだろう。
ここは、私が動かなければ。
私が太陽にならなければ。
しかし難しい。
父親とは、男の子に対して厳しく壁のように聳えるのがその役割であり、しかも、自然にしていればそうなってしまう。
意識して取り組まねばならないのだ。
夏休み中、息子を預かってくれている学校内施設の担当者から、電話がありました。
教えてもらったのは、最近の息子のおかしな態度と振る舞い。
話を聞きながら、いろいろつながるものがありました。
息子の心のSOSです。
父親として、どうすればよいか。
所用で大宮へ。
一瞬で、岩槻に住んでいた時の感覚が甦ります。
生まれ故郷の栃木
学生院生時代を過ごした東京
社会人若手時代を過ごした千葉
結婚し子育てしながら暮らした埼玉
今また暮らす東京
ホームと感じるのはやはり埼玉だな。
子どもがいると地域との結びつきが濃くなるので当然ですが、太田資正との出会いも小さくないインパクトがありました。
父の作ったカフェ空間にて。
5年前に伴侶を喪った父の楽しみは、こうした空間づくり。
雑然としていた田舎の百姓屋敷が素敵さを増すと、兄弟や友達が頻繁に遊びに来てくれるように。最近、寂しくなくなったよ、と父。
自慢の空間を楽しみながら、アップします。
昨日のことですが、朝、ナイファンチ初段を少しやりました。
無想会入門後、ナイファンチ“全伝”ばかりやっていたせいで、初段がしっくりこない状況でたることは以前書いた通り。
一番しっくりこないのは、世間で「下段払い受けからの鉤突き」と言われているシーケンス。
“全伝”だと、下段払い受けの時に、払い手側の下肢を「波返し」して膝蹴りが入るのですが、初段ではナイファンチ立ちのまま。
【参考:一心流のナイファンチ】
ここが気持ち悪かったのですが、この気持ち悪さが少し抜けてきました。
初段ではナイファンチ立ちのまま…とは言え、体の中は何もしていない訳ではないのです。
「下段払い受け」と「鉤突き」の時とで、背中の入り方が違う。そして、やり過ぎかもしれせんが、下肢は、外からは見えないけれど体の内側では「波返し」をしているように思います。
外からは見えにくいけれど、体の中はしっかり動いているのが、ナイファンチ初段の下段払い受け→鉤突き。
そう考えたら、しっくりくるようになってきました。
違うかもしれませんが。