昨夜の息子は、寝る前に“母”に抱きつき、撫でられてから床につきました。

今朝は今朝で、食事の姿勢が悪いと“母”に叱られ、えーという顔をする息子でしたが、昨夜の様子を見ていたので、私は落ち着いてその様子を眺めることができました。

そもそも朝叱られるのも、食事を作ってからの化粧を、妻がリビングで行うようになったから。

これが新しいカタチなのかもしれません。

(写真は本文とは関係ありません)


この週末は、妻と離婚を覚悟しての話し合いに臨みました。

妻の想いや考えには、私の想い至らない深さがありました。

一方で私には、妻には見えていない部分が見えていることをわかってもらいました。

タフな話し合いでしたが、最後は笑顔になれました。

まだまだ色々あるでしょうけれど、一つまた、家族になれた気がします。


男の子が大人になろうとするタイミングは、種々ありますが、ひとつの重要なきっかけは母親のべたべたの愛です。

「大きくならないで」
「いつまでも赤ちゃんの時のようでいて」
という母親の想いが、時にべたべたの愛となり男の子を包みます。

男の子は、その愛に癒されながらも、でも恥ずかしくなります。

こんなのみっともない!
甘えておいた癖に、甘えた自分が恥ずかしくなり、少し母親を避けつつ、大人になろうとし始めます。

我が家の問題は、この環境が無いこと。

残念ながら、妻には、この溢れだすべたべたの愛はありません。

むしろ甘えようして近づき、気づかれて恥ずかしくなって隠れる息子の奇行に、“大丈夫なの?”と不安になり、“きちんとしつけをしなければ”と躾にアクセルがかかります。

男らしさの大切さと躾の重要性を語る妻に、「もう小学四年生だしな」と、同意する私がいました。

しかし、これが問題を生じさせています。

存分に甘えてから、恥ずかしくなって母を避けるのが男の子の成長なのです。その出発点には、存分の甘えがあるのです。

この甘えが無い状態で、パリッとしろ、男らしくしろと言われ続け、そうしないと温かく迎え入れてもらえない息子は、北風の前にコートを固く羽織った絵本の男と同じ状態に追い込まれていたのです。

男らしくしないと温かく迎え入れてもらえない。つまり、愛は無条件ではなく、条件付き。そして、甘えることなく男らしく振る舞うならば、もはやそこに甘えるチャンスは一時もないのです。

これでは、おかしくなるのも当然です。



朝の過ごし方も、問題です。

妻は、誰よりも早起きし、家族のお弁当を作り、夕食の下ごしらえをします。
そして、一仕事終えてシャワーを浴び、部屋で出勤の準備をします。

息子が起きてくるのは、このシャワーの時間。
息子は、朝起きて“母親”にほとんど会わないのです。

朝御飯は、自分でパンを焼いて食べます。
妻は、「朝御飯ってそういうものでしょ。お弁当と晩御飯に愛情を込めているからいいじゃない?」

ただ、息子からはそうは見えないのです。

自分の部屋に籠って出てこない“母”。
テーブルに置かれたパンの袋。
私もバタバタしているので、ひとりでパンを取り出し、焼いて食べます。

愛情を込めたお弁当と晩御飯は、躾の意味も込めて、嫌いなものだらけの息子に忖度せず、いろいろな材料が入っています。美味しいし、健康にいい食事。

しかし、嫌いな材料が入った料理を見た息子は硬直し、いやいや食べることで、両親から叱られます。

そこには、愛を感じる機会が無いのです。

「朝御飯はそんなものだし、嫌いな食べ物を食べろと言われて親に怒られるなんて、当たり前でしょ。そんな風にあの子の気持ちを先読て、共感しているから、人に共感をもとめてあまえるばかりになってしまうんじゃない?」と妻。
「愛って、そんな薄っぺらなものじゃない。愛が無かったら、私はなぜ誰よりも早く起きて、バランスを考えて食事を作っているの?」

それはその通り。
しかし、違う面もある。

君が育った家庭には、子どもがいつまでも子どもらしくいて欲しいと思う、べたべたの愛を以て接してくる母親がいた。だから成立したことなんだ。

べたべたの愛があって成立した家庭の姿を、それが無い状況で反復してもうまくはいかない。


べたべたの愛がない以上、やり方を変えなければいけないのだ。

ただし、妻は、妻の考える形で愛をしてしている。これ以上何かしろと頼めば、ノイローゼになってしまうだろう。

ここは、私が動かなければ。
私が太陽にならなければ。

しかし難しい。

父親とは、男の子に対して厳しく壁のように聳えるのがその役割であり、しかも、自然にしていればそうなってしまう。

意識して取り組まねばならないのだ。
夏休み中、息子を預かってくれている学校内施設の担当者から、電話がありました。

教えてもらったのは、最近の息子のおかしな態度と振る舞い。

話を聞きながら、いろいろつながるものがありました。

息子の心のSOSです。

父親として、どうすればよいか。
所用で大宮へ。
一瞬で、岩槻に住んでいた時の感覚が甦ります。

生まれ故郷の栃木
学生院生時代を過ごした東京
社会人若手時代を過ごした千葉
結婚し子育てしながら暮らした埼玉
今また暮らす東京

ホームと感じるのはやはり埼玉だな。

子どもがいると地域との結びつきが濃くなるので当然ですが、太田資正との出会いも小さくないインパクトがありました。




一昨日の写真。
息子、網での魚撮りに初めて成功。
我が家の男児は、これができると元服です。


伝通院さんで月一回開催される「お寺ヨガ」に参加。ガチガチだった体が、少しほぐれました。


父の作ったカフェ空間にて。

5年前に伴侶を喪った父の楽しみは、こうした空間づくり。

雑然としていた田舎の百姓屋敷が素敵さを増すと、兄弟や友達が頻繁に遊びに来てくれるように。最近、寂しくなくなったよ、と父。

自慢の空間を楽しみながら、アップします。 




昨日のことですが、朝、ナイファンチ初段を少しやりました。

無想会入門後、ナイファンチ“全伝”ばかりやっていたせいで、初段がしっくりこない状況でたることは以前書いた通り。

一番しっくりこないのは、世間で「下段払い受けからの鉤突き」と言われているシーケンス。

“全伝”だと、下段払い受けの時に、払い手側の下肢を「波返し」して膝蹴りが入るのですが、初段ではナイファンチ立ちのまま。

【参考:一心流のナイファンチ】

ここが気持ち悪かったのですが、この気持ち悪さが少し抜けてきました。

初段ではナイファンチ立ちのまま…とは言え、体の中は何もしていない訳ではないのです。

「下段払い受け」と「鉤突き」の時とで、背中の入り方が違う。そして、やり過ぎかもしれせんが、下肢は、外からは見えないけれど体の内側では「波返し」をしているように思います。

外からは見えにくいけれど、体の中はしっかり動いているのが、ナイファンチ初段の下段払い受け→鉤突き。

そう考えたら、しっくりくるようになってきました。

違うかもしれませんが。


お盆なので、昨日から栃木の実家に来ています。

田舎の農家の古家屋が、父によるこの十年の修築で、見違えるようなオシャレ空間に。

昨夜は、ジンと栃木の地酒を、父選曲のバッハのパルティータを聴きながら2時くらいまで飲んでしまいました。

今は頭がグラグラする実家2日目です。