【WN文字書き交流会:お題】
A)シチュ『手をつなぐ』
B)出だしの一文『いつもどおりの一日だった。』
C)台詞『そうは言っても、どうしようもない』
D)アイテム『鏡』
共通テーマ:水遊び
「ノイアルに恋した娘のはなし」
(司書の独白)
いつもどおりの一日だった。
わたしにとっては、いつもどおりの一日だった。
蔵書のほこりを払い、閲覧者によって乱れた並びを直し、持ち込まれた遺物を鑑定する。引き取ったその遺物の状態を整え、しかるべき棚へ収める。少し息をつくため、お茶を淹れる。
葬送の鐘の音は、この塔までは響かない。
ここでの一日は変わらない。
一人の女性がその生を終えた、その日でも。
鐘の音が届かない場所であるならば、わたしの祈りも彼女のもとへは届かないのだろうか。
そうは言っても、どうしようもない。この身が人とかけはなれた存在である以上、このように感傷的になることさえ推奨されたことではないのだ。
それでも。いつもどおりに進める一日のなか、一度だけ、彼女のために祈ろう。
どうか
どうか、来世ではわたしのようなものに捕われないように。
そしてどうか―
(とある老婦人の回想)
魔術師の塔に生まれたわたしにとって、知識の間は馴染みやすい場所だった。不思議な遺物を見るのは楽しかったし、文字を覚えてからは壁を埋め尽くす蔵書を制覇することがまた楽しみとなった。
いつからだろう。これらの楽しみより何より、そこに居る穏やかな雰囲気の司書に会うことが目的となったのは。
司書の名はノイアルと言う。知識の光を目に宿し、よく響く声で話す、静かな人だった。いや、正確には彼は人ではない。知識の間の番人のような存在で、途方もなく昔からそこに居て、そしてこれから途方も無い時をまた生きるのだ。
所詮報われることのない恋心であった。面倒な人を好きになった。自分でも重々承知している。ただ自分の意思で恋心を止められるのならとっくにそうしている。
はっきりと好意を示したことは無かったように思う。友人にさえ打ち明けることの出来ない想いは、けれど確かに育ち続け、わたしは終生誰とも恋愛や結婚をすることはなかった。
それでも覚えている。あの日も朝から雨が降っていた。
わたしはいつものように知識の間に出かけ、読みかけていた遺跡の本を読んでいた。ノイアルもまたいつものように、収集された遺物の手入れをし、わたしに本についての知識を一言二言伝えたあと、窓辺に座って外を見ていた。
「雨ですね」
一息ついたわたしは彼に呼びかけてみた。
「雨は好き?」
ククリアでは雨の日の何気ない挨拶である。しかし彼は珍しく口の端で笑った。
「ああ、とても」
無表情な彼しか知らないわたしは、胸が詰まってしばらく声が出なかった。
それを気取られたくなくて、わたしは窓から手を伸ばした。
「まあ、冷たい」
今思えばありきたりなことを言うなと思う。若かったのである。若い娘が雨で水遊びをする、無邪気にはしゃいだ笑顔の効用を、わたしははっきりと自覚して使っていた。
「そろそろ寒くなってきますね。ほらこんなに冷たいわ。ノイアルさんもいかがですか」
ここでノイアルが優しい言葉でもかけたら、わたしはきっと雨の雫をノイアルにふりかけて遊んだであろう。しかし、彼はまゆをひそめた。
「いや…」
少し言いよどみ、
「わたしは塔から手を出すことはできない」
「え?」
「塔から出られない」
そう言って、彼はわたしの傍をはなれ蔵書の整理に行ってしまった。
ノイアルは塔から出られない。もしかしたらそうかもしれない、と思っていたことを、本人からはっきり聞くのは初めてだった。それが、窓から手を伸ばすことさえも出来ない厳しいものだということも、そのとき知った。
なによりわたしを驚かせたのは、そのことを彼自身が憂いているしぐさを見てしまったことだ。
人では無い存在であっても、人のような感情がある。
もしかしたら、自分を好いてくれる可能性があるかもしれぬと、思ってしまうではないか?
自分だけに見せた感情という暗い愉悦も、そこにあった。
「手を出すことも…禁じられているのですか」
ノイアルはしばらく無視していたが、わたしがずっと窓辺で待っていると仕方ないといったふうに戻ってきた。
「禁じられている、とは言わない。ただ出来ないのだ」
「では」
わたしは言った。
「外に出る方法を探したらどうでしょう。誰かが持ってくるのを待つのではなく、ご自身で遺物を探したらいいのです。ここにはこんなに書物もありますし、二人で探したらきっと」
「要らぬ」
いかずちのような声だった。
二人で探す、という甘い妄想に浸っていたわたしを現実に戻すには十分すぎた。
「ごめん…なさ」
「いや」
ノイアルはいつもの無表情に戻って、言った。
「わたしは知識の間の番人。わたしはあなたがたが発見した事実や事物を収集し、閲覧しやすいよう手助けするのみ。それ以上の存在ではないのだ」
それは誰に接するときにも同じ、司書の顔だったため、余計にわたしを落ち込ませた。
「わたしは」
嗚咽が混じらないよう気をつけたが、案の定情けない声が出た。
「わたしは…あなたと」
「大きな声を出したことは謝る。そしてあなたは何か誤解をしているようだ。わたしはあなた方と共に過ごすことはできないのだよ」
口に出そうとした想いは途中で打ち切られた。
「誤解とは」
わたしは半ばやけで聞いた。
「誤解とはなんです。わたしの思いに気づいていらっしゃるくせに」
「特別な想いをかけられても、わたしには答えることができない。わたしは人ではないし、そのような感情もない」
ノイアルはそれでしまいにしたかったのだろう。再び本棚へと戻りかけた。
「そんなお顔をして、感情が無いと言うおつもりですか!」
わたしは持っていた手鏡を出し、ノイアルにつきつけた。
途方にくれたようなヒゲ面の男性が、ただの男性が写っていた。
なぜノイアルは、人と変わりなく作られたのだろう。もっと無機質な存在ではいけなかったのだろうか。そのことがわたしと、おそらくは彼をも苦しめるのに。
「…申し訳ありません。むごいことをしました」
わたしは手鏡をおさめ、謝罪した。
「忘れてください。もう、ここには来ませんから」
そう言ってわたしは出口を目指し、歩き出した。意地でも振り返るものかと思った。
「あなたから逃げることは、確かに事態を悪化させるようだ」
背後から聞こえた声は、諦観を含んで少し甘く響いた。
「わたしはあなたに何も出来ない。外に連れて行くことも、もちろん共に生活することも。ただ、ここに居ることしか出来ない」
小さく呟いて、彼はわたしの手をとった。びくりと震えるわたしを、彼は自分のほうに向き直らせた。
「それでもいいなら、来なさい」
それだけである。
手を繋いだ、ただそれだけの思い出である。接吻だとか、それ以上のことは全くない。誓って本当だ。
うるさい。私が一番残念である。
この思い出がわたしと彼のほぼ全てだ。彼の内面を垣間見ることを許されたこの日の出来事を、繰り返し繰り返し思い出した。小娘のようだと笑えば良い。わたしにとってこの思い出を胸に旅立つことは何よりも素晴らしいのだ。
(司書の独白)
この出来事さえ、わたしの心を大きく動かすことはない。ただ蓄積されるのみ。
そのはずであったのに。
(老婦人の回想)
それでも信じよう。塔から出られないあの人がわたしのために祈ったことを。傲慢なくらい、信じよう。あの人の胸にわたしが残した傷を。
一緒に生きたかった。普通の夫婦のような暮らしがしたいなどとは言わない。あの人と同じ、永劫の時を共に生きたかった。それがどんなに苦痛を伴うことであっても。それでも
ああ
わたしが逝くことであなたの苦しみを増やした、そのことを傲慢に謝罪させて欲しかった。
あなたをのこして いくことを
ああ
(葬送の鐘の音)
ククリアの雨音が静かに降り積もるなか、二人の想いが交錯する。
そしてどうか―
あなたが心静かに旅立てるように。
変わらぬ日々を、変わってはならぬ日々を彩ってくれたあなたを、私は愛する。
―かなしい恋をしたけれど、
それでもわたしは幸せでした。