昔ホメオパシーの講座で、先天性無痛無汗症という病氣のことを知った。
身体の痛みを感じない病。
痛みを感じないから、怪我をしても自覚がない。怪我をするような動きをしても氣づかない。
私たちは痛みを感じるからこそ、動きをセーブする。
ストレッチをしていて「身体硬いなぁ」って思うけど、これは痛みに抵抗するからそれ以上曲げたり伸ばしたりしないわけで、痛みがなかったらきっとどこまででも曲げるんだと思う。骨が折れたとしても。
頭痛がするから無理はしない、腹痛があるから食べるのを控える、とか。
そう考えたら、痛みってありがたいもんなんだなぁって思えて、この時の講座から痛みに対する認識が変わったことを覚えている。
この痛みの話は、身体だけの話でもなく感情にも通じるように思う。
心に感じる痛み。
怒られるとか、恥ずかしいとか、嫌わるとか、誰かに傷つけられるような痛みもあれば、
寂しいとか、悲しいとか、辛いとか、自分から湧き上がる痛みもある。
そんな痛みは、できれば感じずにいたい。
だけどそうもいかなくて、痛みを感じる場面に出くわした時、私はその痛みを感じることに抵抗して自分の心に添わない言動を取ってしまうことがある。
本音を言わなかったり、相手に合わせたり、平氣なふりをしたり、”私”よりも”相手”を優先して自分を守る。
守ったつもりになる。
だけどそれは全然上手な回避法ではなくて、そうやって痛みを回避しても心はまったく晴れない。
先日図書館に本を返しに行ったら、「この傷、最初からついてました?」と司書の人に聞かれた。
見ると借りた絵本の背表紙のあちこちにカッターの傷が。
とっさに「お山の子たちが下敷きにしちゃったかも!」って心には浮かんだけれど、思わず「最初からあったかは見てませんでした」と答えてしまった。図書館側でも担当が休みで今は確認できないとのことで、後日連絡しますとその場は終わった。
のだけど、なんだかとっても後味が悪い。
まったく心当たりがないわけでもないのに、なんであんな返事をしちゃったんだろ。
なんで、こちらで傷つけたかもしれませんって言わなかったんだろ。
それはきっと、相手からの不快な印象を避けたかったから。
本に傷をつけて返却してしまうような人っていう印象を持たれるのが嫌で、その痛みを避けたかったから。
私があの返事をしたことで痛みを避けられてホッとできたのかっていうと全然そんなことはなくて、
心のモヤモヤが残ってしまっていることははっきりと分かっていた。
そのままモヤモヤを持ったまま過ごしたくはない。
私は図書館に戻って、あの本はこちらで傷つけた可能性があることを伝えた。
司書の人は「一応確認してからまたご連絡しますね。わざわざありがとうございました」と言ってくれた。
自分の弱さを隠さずに正直に話ができたことで、私はやっとホッできた。
私の心のモヤモヤはすっきりと吹き飛んで、むしろ晴れ晴れした氣持ちで帰ることができた。
この一件が起こったことでひとつ自分にマルを出せたんだから、起こってよかったとも思えた。
なんだか器の小さな話ではあるけど私にとってはこういう一つ一つがとても重要なこと。
自分の痛みを避けるための言動から自分の弱さを知り、ヘコみ、でもそこと向き合って受け入れて越えていく作業は、私にとっては勇氣のいることでもあるけど自分への信頼を深める課題にもなる。
自己信頼や自己肯定感を高めるって、何かのワークショップに一度参加したから得られるとかいうものではなく、こういった日常の一コマ1コマにチャンスがたくさん隠れているように思う。
痛みを感じるからこそ自分の弱さを知る。向き合うべき自分が見える。
そこから自分を信頼できる行動や考え方を知ることができる。
そう思うと、痛みってやっぱりありがたいもんだ。