いい歳の重ね方 | 野良翻訳家・HanaBananaの Enjoy Life!
はっきりしないお天気の日々、最近産まれた台風は3連休中に日本を訪れるのでしょうか。


昨夜、帰宅してポストをのぞくと、母の幼馴染のおじちゃまから小包が。
母に渡したら、1枚のDVDが入っていました。

何だろうとプレイヤーに入れてみたら、母を含める同窓会の集まりを30年以上前から記録した映像を編集したもの。


何度かここにも書いていますが、今80歳になる母は上海で育ちました。今でこそ、上海は中国の都市として存在していますが、アヘン戦争に負けた中国、上海にイギリス領事が駐在し、その後、東洋の貿易のマーケットとしてどんどん発展、フランス、アメリカも進出、様々な文化の交差点として、当時は「東洋のパリ」と呼ばれる、中国でありながら中国ではない、独自に発展した特別な世界でした。



当然、日本人もそのマーケットをめがけて様々な人々が出入りし、母の父は日本の化学系の支社と工場(油脂を扱っていたらしい)を任されて、上海に赴任していました。そして戦後、徐々にナショナリズムが濃くなっていく中で、上海の市場の締め付けもどんどんきつくなっていき、ポロポロと日本に帰国する人も増え、様々な日本人専用の公的施設も縮小していったそうで。
中でも困ったのが、教育機関。うちの母は8歳という幼いうちにインターナショナルスクールに放り込まれたのですが、殆どの日本人家庭の子供は日本人学校に通っていたので、とても困ったそうです。


終戦後、日本人は、義豊里(ギホーリ)に集められ、そのギホーリにある二階建て一軒家で、残留した日本人家庭の小・中学生の子供達60名ほどを、教師としては素人でしたが、上海にいた生え抜きの日本人から、化学者、技術者、外交官などが集結し、子供達に勉強を教えていたそうです。政治的変化から来る未来への不安を解消しようと大人が計らったのでしょうか。勉強だけではなく、合唱が盛んで、彼らには思い出の歌がたくさんあります。


母は、その、上海残留日僑子弟補習室に6歳で入学、インターに転校してからも午後はここで勉強していました。そして、その補習室の名前は、当時の上海にいた愛書家には伝説的な日本書店のオーナーで、
魯迅とも親交が深かった内山完造先生が「童話会」と命名してくださったそうです。

この辺りの話はWikiにも書いてありました。

そういう特殊な環境の下で一緒に勉強した
小学生から中学生だった子供達、年齢に幅はありますが、今でも仲良しです。


その年上組であるお兄さん(DVDの制作者)が、毎度、同窓会を開いていました。

横須賀にある山から海を見渡せる広いご邸宅でホムパをする日もあれば、
もうお亡くなりになりましたが小さい頃かかった病気で体に少し障害が残っている同級生が、晩年は湯治もかねて万座の温泉旅館に住み込みで働いていらして、毎年そこに車何台も連ねて旅行にいったり。

集まるタイミングは、メキシコに住んでいた同級生が帰国する時でしたね。
その方は母の大親友だったのですが、今はもうこの世の人ではなく。

そういえば、思い出の地、上海もいってましたネ。昔通った学び舎を訪ねたり、あの頃の街を、道を歩きながら当時、親に隠れて食べた甘栗を食べたとか。


年々、少しずつメンバーは減ってきていています。年を取った今はもっぱら、外国人記者クラブ、いわゆるプレスクラブでのランチ。もしくは今は改装中のホテルオークラの2つが、車や電車での移動や細かいところに手の届くサービスとお料理の美味しさ、様々な利点があるので、そこで集まっています。


私も小さい頃からよく参加して可愛がってもらっていたので、その集まりを客観的に考えることもなかったのですが、昨夜は、そのDVDで30年に渡る同窓会の映像をみて、改めて、その特殊な結びつきに感心をしました。


温泉施設での同窓会。
おそらく皆、子育てを終え、家族孝行ではなく友達と旅行に行ける時間の余裕が出来てきた50から60歳、その頃から1年に1度、集まっていましたね。
その時代のそのお年頃であれば、
温泉にいけば浴衣、宴会場で男性は浴衣はだけて無礼講じゃー、演歌とか踊り出すオジオバとかみたいなのとか、ちょっと他人に見せるのを憚られるような中年以降のおぞましい悪ノリ、定番じゃありませんか?

でもそこは外国育ちだからなのか、宴席でも男子は皆きっちーーーーーーと浴衣を着用、裾の乱れ一切無し、女性にいたっては浴衣を着ている人はいません。皆、小奇麗なワンピース的な。


特に大金持ちの、とか、どこそこのとか、上品推しでオホホホな集まりでもないのですが、浮かれることなくはみ出すこともなく、乱れることも自慢もなく、ただただ楽しんでる、そんな感じです。


もちろんお酒も出ていますけれど、酔っ払ってもいなくて、誰かが童謡を歌い始めて、合唱。もしくは、フルートを披露したおじちゃまがいらしたのですが、そのうちフルートと口笛(昔の人って口笛が上手い)で2部合唱、それに合わせて皆、定番の「ふるさと」から「思い出のグリーングラス」まで。
50、60のおじちゃん、おばちゃんが無邪気に「次はあれを合唱しましょう」とはしゃいでいる様子は、集まれば、いつでもどんな場所でも彼らは小学生から中学生に戻るんでしょうね。あまりに特殊な環境で、特殊な時を共にしたという結びつきは、お酒よりも温泉よりも、子供にかえって歌を歌うことが楽しいのでしょう。


DVDを見ていて思ったのは、30年前の母は「私そのもの」だったということ。
息子が驚いていたのですが、見目形だけではなく話し方、所作、態度、ここまで似ているとは。。。と。


そして、童話会の方々それぞれ、人生がひと段落して集まり始めた年代と、今、アートスクールの友人達と繁く集まっている自分達の年代が、ちょうど似通っていることに、私は「あ…」と思いました。そして、若い頃を共にした友達に感じる安心感は、伴侶や兄弟や家族に感じる安心感や愛情とは、また違う、特別な感情であることを、ちょうど実感していたところに、この30年分の記録がつまったDVDが来たので、とても感慨深いものがありました。


さっそく、アートスクールの友人達に伝えて、「私達もこうありたいね。」と。
パリの友人が帰国するのを機に、これからも思い出を作りつつ、昔の思い出をたどったりして、会えば無邪気に楽しい時間を過ごしたいものだねと。じんわり涙目になりつつ、何だか温かい気持ちで眠りにつくことができました。


年を取ることは未知で不安なことですが、
こうやって、道を踏み外すこともなく、それぞれ意義のある人生を歩みながら、子供のようにたくさん遊んで楽しんでいる大人達がいて、何だか安心しましたネ。
亡くなっちゃった同級生もいるんだけど、
可哀想、悲しいというより、懐かしいね、楽しかったね、みたいなんですよ。
共に年を取る仲間がいて、長年お互いを大切にしあって、思い出を作っていけるっていうことは老後の幸せを導くものなのだなとも思いました。


ただ、親の世代を「へぇ〜〜」と時代が違う人と見るのではなく、自分達にも投影できる年齢になり、そしてそれぞれが真面目に人生の意義を考えながら生き抜いているから、なのでしょうか。だとすれば、友達に恥ずかしくない、顔向けの出来る人生を歩まなければ。毎日を大切に、そして、切磋琢磨しながら生きよう。


DVDの冒頭は、布に手書きで「童話会」のタイトルバック。制作者のお兄さん(おじいちゃん)のだみ声で「今日の日はさようなら」の歌が無伴奏で流れます。



♪いつまでも絶えることなく
友だちでいよう
明日の日を夢見て
希望の道を

空を飛ぶ鳥のように
自由に生きる
今日の日はさようなら
またあう日まで

信じあうよろこびを
大切にしよう
今日の日はさようなら
またあう日まで
またあう日まで♪


ありがとう。
植田のおじちゃま。
大切なことを教えてくれて。
まだまだ人生の大仕事はたくさんあるけれど、同じくらい人生を楽しんで生きようと思います。