※「あのこは貴族」の小説、映画のネタバレを含みます
有楽町のヒューマントラストシネマで、『あのこは貴族』を見終わったあとの、わたしと友人は饒舌だった。
あのシーンはどうだった、あのセリフがよかったと、帰りの電車の中でずっと映画の感想を伝え合った。
『あのこは貴族』は、山内マリコさんの小説で、今年2月に岨手(そで)由貴子さん監督・脚本で映画化された。
渋谷の松濤(しょうとう)で生まれ育った、「貴族」の榛原(はいばら)華子と、富山の一般家庭で生まれ育ち、大学から東京に出てきた時岡美紀。
本来なら「階層」が違うために出会うことのないはずの二人が、一人の男性を介して出会い、お互いの人生に影響を与え合っていく――。
小説では、東京しか知らなかった華子が、美紀と出会うことで世界を広げるという、華子の成長を中心に描かれていたけれど、映画では、美紀のほうにもしっかり焦点が当たっていた。
わたし自身、北九州で生まれ育って東京に出てきたので、どうしても美紀のほうに感情移入してしまう。というか、ど真ん中だ。
映画のなかでわたしがとても好きだったシーンは、美紀と友人がレストランでお茶をしながら、一緒に起業を決めるところ。
まだ外が明るいなかで、「もう、飲んじゃう?」「アルコールあるかな」とふたりはメニューを見て店員さんを呼び、大きな声で「生ビール2つください!」と言う。
わたしと、一緒に映画を観た友人の生き写しのようだった(笑)。
さらに、このふたりの会話は、このままずっと結婚せずにひとりだったら、老後どうしようという話になって、「やっぱり介護がラクになるように、脱毛をしなきゃだよね」といった会話になる。
35歳を過ぎてかから、わたしも何度女友達とこの会話をしてきたか笑。
これは小説にはない会話だったので、岨手さんの脚本すげー!と思った。
華子と美紀が出会うきっかけとなった青木幸一郎は、小説のなかで美紀を次のように評している。
「苦労人っていうか、サバイバーだからね、東京の。地頭がよくて、自立しててそれなりに野心もあって、飼いならせないタイプ。東京にはああいう女、いっぱいいるよ」
一方で、代々整形外科を経営する榛原家で生まれ育ち、正月は家族と帝国ホテルで過ごすような華子の人生は、わたしにとっては別世界。東京生活10年の間にそんな貴族と出会ったことがないので、やはりわたしとは階層が違う、ということなのだろう。
華子は序盤に結婚相手を求めていろんな人の紹介で婚活をするのだけど、指定された超大衆居酒屋(映画の撮影は神保町の「酔の助」だった!)に行ったら相手が関西人男性で、驚いて逃げ帰ってしまうというシーンがある。
映画を観たときは、そんなに大衆居酒屋がダメだったのか?やっぱりお嬢さまだな、と思ったのだけど、小説では華子の心情をこう説明している。
「華子は知らなかったのだ。東京には、いろんな人がいるということを。さまざまな場所で生まれ育ち、さまざまな方言を操る人がいて、彼が自分とアクシデント的に交わることも、当然あるのだということを。
結婚相手の条件リストを作ったことはなかったけれど、東京出身という項目は言うまでもなく第一位であることを、この日はじめて華子は痛感した」
東京の良家で育った幸一郎にも、似たような感覚があることを、美紀のセリフから察することができる。
「出会って何年も経つけど、幸一郎は私がどこの出身か知らないと思うよ」
出会ったらまず出身地を聞くのが当たり前の感覚だとわたしは思っていた。いま、東京で知り合った友達の大半は地方出身者だ。この物語は、逆に、東京には代々この土地に根差し、東京で生まれ育っている人がいることを、わたしに気付かせてくれた。
「東京という街は、地方出身者のあこがれでできている」という美紀のセリフがある。
本当にそうだと思う。
わたしも、今でも表参道のオシャレな街並みを見るとテンションが上がるし、ネオンがキラキラして人の活気であふれる、いかにも東京、という場所が好きだ。
東京タワーが見えるマンションに住む美紀。
「東京に生まれ育ったけど、そういえば東京タワーってちゃんと見たことなかったかも」と言う華子。
どこで生まれ育った人にも、幸せな日があれば落ち込む日もある。
うらやむような存在の人にも、地獄や悲しみはある。
それを想像することは、世界を広げ、自分の苦しみを少し和らげてくれるように思う。