いよいよ始まったリオデジャネイロ五輪。世界各国から代表選手が派遣され、様々なスポーツを通じた国際交流が行われます。
そこで今回は、日高のまちと外国との交流の歴史を振り返ってみたいと思います。
◆カナダへの移民の歴史
美浜町にある三尾地区は、山がちで耕地に乏しく、漁業で栄えた地域でした。しかし明治時代、漁場争いに敗れるなどして困窮を余儀なくされていました。そんな中、1888年、三尾出身の大工・工野儀兵衛はカナダに渡航し、バンクーバー郊外のフレーザー川でサケ漁が盛んに行われていることを知って、故郷にその状況を伝えます。そして翌年から、三尾からカナダへの集団移住が始まりました。三尾出身のカナダ移民は昭和初期には二千人を越え、カナダの日系移民の一大勢力となります。
カナダで漁業や林業に従事した彼らは、困窮していた故郷への送金を頻繁に行い、三尾地区は裕福な地区となりました。またカナダから帰国した人々が現地の生活様式を持ち込み、ロッジ風の家を建てるなどしたため、三尾は「アメリカ村」と呼ばれるようになります。
現在三尾にゆかりのある日系カナダ人は五千人以上いるとされ、今でも国境を越えた交流が続いています。
◆日本とデンマークの交流
1957年、日の岬沖を航行していたデンマーク船「エレン・マースク号」は、嵐の中で木材運搬船「高砂丸」が炎上しているのを発見。救命艇を出して高砂丸の船長を救出しようとしましたが、船長は縄ばしごを登っている途中で力尽き、海に転落してしまいます。エレン・マースク号の機関長ヨハネス・クヌッセンは、船長を救出するため、危険を顧みず大荒れの海に飛び込みました。
クヌッセン機関長は翌朝、事故現場の北にある田杭地区(日高町)の浜辺で遺体で発見されます。日高の人々はその愛と勇気に感動し、彼が亡くなった海を臨む日の岬に顕彰碑と胸像を設置しました。この事件を機に、日高とデンマークの交流が始まります。
2002年のサッカーW杯。デンマーク代表が大会前のプレ・キャンプ地に選んだのは、他ならぬ和歌山県でした。選手が関西国際空港に降り立ったとき、日高町・美浜町商工会の青年部の若者たちが彼らを出迎えたそうです。大歓迎を受けたデンマーク代表は、時に練習を早めに切り上げ、地元の子供たちとのサッカー教室やサイン会を開きました。
一人のデンマーク人の行動が、時を越えた両国の友好に繋がっているのです。
◆進む日高のグローバル化
昨年12月、関西国際空港にベトナムからのチャーター便が運航を開始しました。いち早くベトナム人観光客を取り込むため、日高町商工会は(公財)わかやま産業振興財団からの助成を受け、「クエ、熊野古道等地域資源を活用したベトナム観光客囲い込み戦略事業」を開始。今年7月には商工会、旅館民宿組合などからなる日高町海外観光客誘致委員会が作られ、講演会や英語版のパンフレット作成など、ベトナム観光客を受け入れるための取り組みが進められています。
また、印南町にある農家民泊「いなみかえるの宿」では、イスラム圏からの旅行者を取り込もうと、宗教上のルールをクリアしたイスラム教徒(ムスリム)向けの食事を提供する取り組みが行われています。
外国人観光客にまちの魅力を知ってもらい、日高地方を訪れてもらうため、着々と進む日高のグローバル化。国境を越えた交流を経験してきた日高の人々の、新たな挑戦が始まりました。