私は北条早雲の子、幻庵です。
(早雲は最初は伊勢新九郎盛時と名乗っています。)
盛時は自邸から米や粟を持ち出し、願阿弥のところへ行きました。
願阿弥は頂法寺の六角堂の近くに小屋を建て民に粥を施す活動をしていました。
頂法寺って聖徳太子さんが開基だって伝えがあるんだよ。
そこには民が溢れるように集まっていました。
盛時「御坊、やっておりますな。」
願阿弥「これは新九郎殿!」
盛時「わずかですが粥の材料です。」
願阿弥「これはありがたい。早速、粥に調理しましょう。それと幕府からも100貫文を施し粥の費用として頂きました。」
盛時「おぉ、幕府がやっと動いたか。私も手伝いますぞ!」
盛時は自らが将軍、足利義政様に奏上したことを願阿弥には言いませんでした。
民を1人でも助けること、それが盛時の願いなのです。
盛時は粥を器へ注ぎ、民に渡していきました。
盛時「皆、焦るでないぞ。ゆっくり食べるのだぞ。」
民は「ありがとうございます」と盛時に礼を言い粥を食べていました。
その後、飢饉で集まってくる民の数が多く、資金が足りなくなり願阿弥は粥の施しを止めざるを得なくなりました。
寛正の大飢饉はそれだけ酷かったんだね。
この頃から将軍、義政様はあることを考えていました。
将軍を辞め出家したい、それを実現するには…と。
しかし、義政様には嫡男となる男子がいませんでした。
そこで義政様は異母弟で出家していた義尋様を後継ぎに指名したのです。
1464年、義尋様は還俗し、名を足利義視様と改めてました。
この義視様の近侍として盛時は仕えるようになりました。
盛時「義視様は次期将軍。飢饉の時のようなことの無いような世にするために義視様を補佐しなければ!」
盛時は希望を持って仕え始めました。
しかし、世の乱れはさらに増していくのです。義政様の正室・日野富子様に男子が誕生したのです…。
つづく…
次回をお楽しみに〜